すでに、この時第一志望の東京都に受かっていたため、私はその電話でお断りをしなければならなかった。これぞまさしく”ドタキャン”だった。この時ばかりは「人の道を踏み外している」と自責の念に駆られた。先方の「この期に及んでどういうことか」という怒りが、電話口を通して突き刺さるように伝わってきた。断りの理由は、とっさに「大学院に進むことになった」と口をついて出てきた。そうした対応については、予め先輩たちから”伝授”されていたので、そのマニュアル通りの対応であった。

ところで、そもそも高校教師を志望した理由はというと、生活指導の占める割合が多い中学校よりも、大学の延長で、「歴史学」すなわち「学問」を通して生徒と関わっていきたいとの思いから、教科指導を重視する高校を考えた。学問、というか専門分野の探求が可能かどうかが、私の判断基準としてあった。そして、高校には、当時「研修日制度」〈注3〉というものがあり、専門性の向上において、とても魅力的な環境が整っていたことも大きな決め手となった。こうした理由から高校教員を受験したのであった。

〈注1〉「就職課の大物先生」私が以前から教員採用全般にわたって大変お世話になっていた先生で、高校の校長経験者でもあり、中学、高校の公立・私立を問わず教育界に顔が利くとの評判の先生であった。私と同郷ということもあり、常々気にかけていただいていた。先生がお怒りになられたのには、以前、私が「どこでもいいから紹介して欲しい」と頼み込んでいた経緯がある。

〈注2〉「かなりの狭き門」私が受験した当時、高校入学の生徒の年代は、丙午生まれの影響で出生率が大変低く、高校教員採用枠が抑えられていた。

〈注3〉「研修日制度」当時、東京都の高校には研修日の制度が存在していた。主として、専門教科の教材研究を目的に、学校を離れ図書館や大学などに通い、研鑽を積むことができるという制度であった。そして、それは週1日と決められており、それぞれの教員が自ら希望日を指定し、その指定日は基本的に学校に勤務しなくてもよいことになっていた。大体は自宅や図書館で授業準備をする方が多かったように思う。しかし、中には"研修"とは名ばかりで、平日の昼間からゴルフに出掛けたり、自宅で自動車を洗車したりしている者もいた。そうしたことが都民の厳しい目にさらされ、新聞・テレビ等のマスコミにも取り上げられたりもした。そうした中で、2002年、学校週5日制の完全実施に伴い、いよいよもって研修日の制度は廃止されることとなった。

※本記事は、2021年10月刊行の書籍『ザ・学校社会 元都立高校教師が語る学校現場の真実』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。