和木重太郎という青年の生い立ち

和木重太郎、外観は父親と同じで五尺八寸と大柄である。顔立ちは母親似で面長、眉毛が濃く眼が大きい。難を言えばちょっと受け口で顔が長く見える。

小さい頃から体を動かすことが好きで、小太刀を得意とする立花道場に通った。それは家から近いということもあったが、昔は名手と言われた父親から小太刀の手ほどきを受けたからでもあった。

剣ばかりではなく杢塀町にあった体術も教える小杉流道場にも通っていたが、十二歳のとき、竹矢来で囲まれた決闘場で新宮寺司が加持美月の敵討ちの助太刀をするのを見て、それからは剣術にのめり込んだ。

重太郎は、他人からは芒洋としていると思われている。でも、それは頭のなかに選択肢がたくさん浮かんで、他人の言うことにすぐに反応しないことがあるからだった。後でもっと適切な対応があったなと思う後悔がいつもある。

だが、剣は違った。稽古を重ねていくと、打つ、払う、突くの単純な動作に集約され、そこから次に変化する多様性はいくつもあるとわかる。そうなったのは後の話だが、重太郎はすべてが繋がるように体が自然と動いた。

そんな重太郎は立花道場に通って剣術が面白くなって夢中になって励んでいた頃に、道場で不条理に出会うことがあった。それが江戸行きを決心するきっかけになったのだ。

重太郎が一息入れるために、道場の壁に沿って座って汗を拭いていたときのことである。その日、師範代代理の有留賀真左が、重太郎と同い年の上士の子弟を特別に教えているのを見た。そこまではいつものことだからと見ていた。

有留賀が教えているのは返し技だった。相手が右から自分の左胴に竹刀を振って来たとき、それを竹刀で払おうとしないで、相手の竹刀を見切って、相手が空振りするのを追いかけて相手の右胴を打つ。同じ動作を繰り返し教えた後、隅に座っている重太郎を呼び、稽古台になれと云う。

重太郎は黙って立ち、相手が返し技を使うための見切りをさせないように、一歩深く踏み込み、胴に打ち込んでいた。重太郎は教えてもらわずとも、その技は見切りが重要だと見破っていたのだ。

これに有留賀は怒った。重太郎に相手になれと立たせ、激しく打ちこみ、一向に止めようとしない。重太郎は眉間に血を滴らせながらも必死で防いだ。

騒ぎが大きくなり、道場で何が起きているのかと師範代が現れ、ようやくその場はおさまった。その離れ際に有留賀真左が放った言葉が、「下士の子の分際で、その性根を叩き直してやる」だった。