恭子の妊娠には加担したかもしれないと、来栖は罪の咎のような重くるしい気持ちをひきずることになった。生前の彼女を思い出す時など、必ず死因となった産褥にまで考えが及んでしまう。妊娠の相手は結局誰だったのか、はっきりと知りたいと思うことも再三あった。

そのような時、自身の果たした役割も男の責任逃れという余地を残してぼんやりと想像するのだが、自分自身がやはり相手となった張本人だったに違いないと、時にはつき詰めて考えてしまう。そのように自分自身を追いこんでしまう時には、ますます落ち込む。

それはそれとして、彼女は妊娠して子供を生み出せるだけの体力を本来持っていなかったとの担当医の述懐を人づてに聞いたこともある。さらにこの医者の判断が彼女の近親者によって大筋では受け入れられているようだと知ることもできた。それでも来栖は恭子の死因について客観的で冷静な最終判断にまで至ることがない。

もやもやした思いに終始してしまい、とどのつまりは、偽悪めいた衝動に駆られて自分に向かい「張本人」といった類の表現を何回も使うこともある。

それとも彼女との心の結びつきなど当初より薄っぺらいもので、体の結びつきぐらいでしか彼女とつながっていなかったとの自覚があったからこそ、このように自分を責める状況に陥ってしまったのか? お定まりの自虐マゾ気質からくる堂々巡りだ。自己を責めるということで、いじましくも良心の疼きといった感覚が少しは和らげられるのではないかと考えたのか?

彼は自らの卑しい性根を心の奥底から自分で引きずり出しているのではと考え、自己を断罪する誇らしさという奇妙な感じを抱くこともあった。

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『ミレニアムの黄昏』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。