それぞれの移転先を見て、なんだ、大きな町を割り当ててもらってよかったじゃないかと思ったら大間違いで、これは近年の市町村の大合併があったことによる錯覚である。当時は、割り当てられた土地は、いずれも〇〇郡××村であり、例えば浜松から移った鶴舞藩の新たな陣屋が置かれた土地は、市原市の現在市庁舎のある海岸部から直線距離で15キロほど入った房総半島の脊梁部にあり、当時は石川村桐木原と呼ばれる原野で、数軒の人家が散在するだけの寂しい場所であった。

転封当時、浜松城には天守閣はなかったようであるが、城や東海道の賑やかな街を追われ、無人の原野を切り開いて小さな陣屋を建てた時の藩主や藩士たちの気持ちはどのようなものであっただろうか。

これらの藩は皆徳川とは縁の深い譜代の藩であった。自分たちの大領主様が取り潰されることなく縁ある地へお帰りになる、ということで、転封に対する反抗的な気持ちはなかったかもしれない。しかし辛くまた寂しいことではあったろう。例えば掛川藩主は、領民と別れるに当たっての達し文で、「次の領主を大切にするよう」と述べる一方で、「百有余年の関係を引き裂かれ別れるのは心残りが多い」と述べている。

会津藩と異なり、転封に当たって減封もなく、移転先も江戸に近い温暖の地ではあった。それでも藩士の家族を含め2~3万人が、大八車を連ねるなどして何日もかけて移動した苦労話や、何もない土地へ移るということで旧藩地の屋敷を解体して駿河湾から船で房総の地へ運んだ話、あるいはせっかく建てた藩庁や藩士の家が猛烈な台風でほとんどが倒壊したといった話が残っている。

1871年7月に廃藩置県があり、全国の藩主は皆強制的に東京に移住させられた。これに伴い旧藩の藩士たちも自由に旧藩の地を離れることができるようになった。

このため新藩の寿命は2~3年と短く、せっかく始められた荒野に新たに城や城下町を建設する工事も中断されることになった。今それぞれの地を訪れても、城や城下町などの痕跡も書かれた資料もほとんど残っていない。比較的資料が残っているのは松尾藩で、ここでは箱館の五稜郭のような西洋式の城を新築しようとしたようである。山武市には小さいながら松尾藩についての資料館もあり、旧藩について記した町史も出されている。

追記2 西暦と和暦

第1部では、事件や事実の発生した年月日について、現在との時の隔たり感をわかりやすくするため、「年」について西暦(太陽暦)を用いている。一方「月・日」については各種の資料で和暦(太陰暦)によって記されてきた月日をそのまま用いている。太陽暦と太陰暦とでは、月日について約1カ月のずれがある。1872年に我が国が暦を太陰暦から太陽暦に改めた際には、明治5年(第1部で言う西暦1872年)12月3日を明治6年(西暦1873年)1月1日とした。

このため第1部で、ある年の12月に発生したとされる事件などの多くは、西暦では、正確には翌年の1月に発生した事件などとなる場合がある。

歴史学研究会編『日本史年表』の1966年版(岩波書店)の「付録3和暦・西暦対照表」によると、そのずれは、次の通りである。

慶応元年(第1部での1865年)12月1日は、正確には1866年1月17日

慶応2年(第1部での1866年)12月1日は、正確には1867年1月6日慶応3年(第1部での1867年)

12月1日は、正確には1867年12月26日

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。