九永禄元年(西暦一五五八年)

梅雨が明けた頃、将軍方の足軽衆が勝軍地蔵山城付近で烽火を上げたので、三好勢は、儂と甚介と三好長逸が一万五千の軍勢で北白川辺りを打ち廻り、将軍方を牽制した。

「此度は数にものを言わせて打ち廻っただけで奴らは鳴りを潜めたが、次はどう出てくることやら」

長逸が「やれやれ」と言葉を漏らした。

「敵はたいした数ではないゆえ、大掛かりな(いくさ)にはならぬであろう」

甚介は楽観視しているようだ。

「今日のように、勝軍地蔵山城か霊山城辺りに出没し、気勢を上げるくらいであれば良いのだが……」

大ごとにならねば良いと儂は願った。

ならば三好勢が勝軍地蔵山城を抑えてしまえば良かろうということになり、石成友通と幕臣の伊勢貞孝が勝軍地蔵山城を占拠し、将軍方の動きを封じようと試みた。ところが将軍方は勝軍地蔵山と同じ東山連峰にある如意岳に陣取り、気勢を上げた。

如意岳は勝軍地蔵山よりも標高が高く、石成・伊勢隊は見下ろされる形となった。

石成・伊勢隊は如意岳の将軍方を討つべく勝軍地蔵山城から出撃したが、逆に勝軍地蔵山城に押し込まれそうになったので、城を捨てて、麓まで兵を退いた。

空き城となった勝軍地蔵山城に再び将軍方が陣取ったので、儂と長逸は策を巡らした。

「長逸殿、今度は儂らが如意岳を占拠してはいかがか」

「なるほど、如意岳と麓の北白川とで勝軍地蔵山城を挟み撃ちする、ということですな」

「さすがは長逸殿、察しが良うござる」

北白川には甚介が陣を敷いている。さっそく儂と長逸の隊は如意岳に登り、そこに陣取った。如意岳からは勝軍地蔵山城の将軍方の様子が良く見下ろせた。

そして朝になるのを待って、儂らは如意岳を駆け下り、勝軍地蔵山城を急襲した。

兵数で劣る将軍方はたいした抵抗も見せずに山を下り、まんまと麓の北白川方面へと逃げ出したのである。果たして北白川で待ち構えていた甚介の隊がこれを迎え撃ち、散々に蹴散らした。

将軍方は奉公衆七十人もが討ち取られ、近江へ退いていった。

戦の結末は拍子抜けするようなものではあったが、此度の戦功第一と評された儂は、朝廷より鶴を賜った。出自の卑しい儂が、まさか主上(しゅじょう)よりご褒美を賜るなど、まことに有り難く畏れ多いことで、天にも昇る心地であった。