第一部

菊の一周忌が過ぎてから、忠左衛門と民の二人は夫婦になった。しかも、亡き姉に気兼ねしてか、忠左衛門は自らを、「度助」というへり下ったような名前に改名したのである。恐らく、菊への想いを断ち切りたかったからであろう。

一方の母親の半も、今度ばかりは前の轍を踏むことはないようにと、不安を抱えながらも食べ物に注意して民を気遣った。実は、民も姉の菊に似てあまり丈夫とは言えなかった。やはり同じ環境のもとで育ち体質的にもよく似ていたのかもしれない。

しかし、「今度こそ世継ぎがほしい」という両親の願いは姉の時と変わっていない。ところが、民は、言ってみればまだ幼な妻、児を産むまで身体の方が成熟していなかったのか、それとも病弱のせいか度助の努力にもかかわらず一向に懐妊の気配さえない。

そうこうしている内に、忠左衛門の生活も少しずつ変わり始めたのだった。当時、年貢米は高瀬舟で高梁川の河口(玉島)に運ばれ、そこから北前船で上方まで運ばれることがあり、その際、川辺宿の船着き場から運び出されていた。そこには、荷運びする人夫を抱えた米問屋があり、それら業者との付き合いで寄り合いが定期的に持たれていた。

大抵は川辺宿の水茶屋や旅籠(はたご)で行われていた。忠左衛門は義父に連れられて何回か出て、その内、代理で一人出るほどになったのである。当時の宿場町は旅籠だけでなく飲み屋も芸者もいる歓楽街でもあった。そこで芸者遊びを覚えたのである。妻が病弱で夫婦生活がうまくいかない分、川辺宿での遊び通いも次第に増え、その内、朝帰りするまでになった。

こうなれば、民だって面白くない。夫に向かって小言を言う機会とて増え、二人の関係はギクシャクしていく。これではうまく行くはずもない。

しかし、度助と改名した忠左衛門は、義父のもとでよく働いた。そのまじめな働きぶりから、家のためを思えば、民もあまりきつくは言えない。その内、民もお茶やお花の趣味を覚え、そちらに熱中することで気分を紛らせていたようである。

仕事に熱心な夫と趣味に没頭する妻、二人の関係は、それはそれで見かけ上はうまくいっていた。もう児ができなくてもいい。いざとなれば、養子養女を取って家を継がせばいいのだ。

親との話し合いでそういう結論を出し、お互いに納得したのか、夫婦間も親との関係も平穏にいき、表面上はしあわせな家族の体裁を保つことができた。そして、そうこうしている内に三年の月日が流れた。

※本記事は、2019年8月刊行の書籍『高梁川』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。