壱─嘉靖十年、漁覇翁(イーバーウェン)のもとに投じ、初めて曹洛瑩(ツァオルオイン)にまみえるの事

(3)

階下におりて、先回りする。首尾よく一人をつかまえることができた。

「あやしい者ではない。わしは、今日からここに入った、王暢(ワンチャン)だ。ここら一帯はみな、漁覇翁(イーバーウェン)様の敷地と聞いた。そなた、家僕であろう?」

無言。

「主人に会いたい。なあ、教えてくれ、どこにいるんだ? なにぶんはじめてで、要領を得んのだ」

無言。 

いったい、どうなってるんだ?  相手は、いつまでたっても口をひらかない。つかんでいた腕をはなすと、あっという間に、姿を消した。私は叫んだ。

「主人に伝えてくれ! 王暢(ワンチャン)が参上したと。面会を望む!」

私もじっとはしていなかった。とにかく、漁覇翁(イーバーウェン)その人に会って、話を聞かなければ。歩くうちに、家畜のにおいがただよって来た。

壁の一部が格子になっていて、そこからのぞいているのは、なんと豕(ぶた)の鼻先である。

中をのぞいてみると、飼葉桶に、餌をぶち込んでいる男と目が合った。

「誰だ、おまえは」

「あやしい者ではありませぬ。今日からここで働くことになった、王暢(ワンチャン)と申します」

「閹者(えんじゃ)か」

私のいでたちを見て、宦官だとわかったようである。男は、こっちへ来いとばかりに、手招きした。

「門外に、ゴマ塩頭の、太った女がいたろう」

「いました」

「その女に制止されなかったか? この門をくぐってはならんと」

「いえ、中に入ってさがしてみたら、と言われました」

「なに?」

「昨晩、知人の紹介で、漁覇翁(イーバーウェン)様にお会いし、働かせてもらえることになったのです。主人にご挨拶申し上げたいのですが、どちらにおわすのでしょう? さっき、見張り番の少年に出会ったのですが、なにも、教えてはくれませなんだ」

「見張り番?」

「ええ、表に三人ばかり、出ているようでしたが……見張り番ではないのですか?」

「おぬし、ここで働くのか? 本当に」

「そのつもりで参ったのです。しかしながら、どこにも人の姿が見えないので、いったいどうしたことかと」

男は、私よりもやや年上に見えた。小柄だが腕などは丸太のように太く、子豕(こぶた)の一頭や二頭は、らくに投げ飛ばせそうである。

「……漁覇翁(イーバーウェン)の居場所は、おれも知らん」

「えっ、でも、ここら一帯はみな漁覇翁(イーバーウェン)様の敷地だと」

「そのとおりだが、翁がどこにいるのか知ってるのは、ごく一部の側近だけだ」

側近ときいて、きのう西山楼で見た、ふたりの宦官を思い出した。

「湯祥恩(タンシィアンエン)殿ですか」

男は目を瞠(みは)った。

「どうして、その名を知っている」

「昨晩、会いましたから」

「会った?」

「はい。からだの不自由な漁覇翁(イーバーウェン)様を、補佐しておられました。こう、影が形に添うみたいな」

「もうひとり、躰のがっしりした、浅黒い宦官がいなかったか?」

「いました」

「その二人は、子飼いの腹心だ。あいつらは子供のころひきとられて、漁覇翁(イーバーウェン)を父とも仰いでいる。湯祥恩(タンシィアンエン)は昼あんどんみたいにヌボ―っとしているが、実際に漁門を動かしているのはあいつだ。浅黒いやつは段惇敬(トゥアンドゥンジン)だ。漁門ぜんたいの見まわり役をしている。ここへも、ときどきやって来る」

「怖そうな人ですね」

「フン」

「漁覇翁(イーバーウェン)様が、ここへ来ることはないのですか」

「来ねえよ。下ばたらきの前には、姿をあらわすことさえねえ。しもじもなんてどうでもいいのさ。忠実な手下が、ムチをしごいて監督してりゃあな。ま、そういうジイさんだ」

雇い主をつかまえて、ずいぶん横柄な口をきくものである。

「それだけ、お忙しいということじゃないんでしょうか」

「あの坐食逸飽(ざしょくいっぽう)のじじいがか?」

男は高笑いした。

「おまえが会ったという漁覇翁(イーバーウェン)は、どんな感じの人だったか、言ってみろ」

「迫力ある御仁でした。足をひきずっておられましたが、なんというか、気力に満ちあふれていて、さすがは一代で財をきずいた方だと思いました」

「そいつは、にせものかもしれないぞ」

「……え?」

「ここだけの話だが、あのジイさんは、一人ではない」

「どういうことですか?」

「傀儡(かいらい)がいて、表を出歩いているのは、そっちなんだそうだ」

「まさか」

そんなバカな。

「だって、古くから知っているという人に、紹介してもらったんですよ」

「あいつは狡猾で、用心深い。おのれの野望を実現するためには、時間をかけて入念に準備するヤツだ。若いときから偽物を泳がせておくくらいはやるだろう」

男の顔をまじまじと見たが、冗談を言っているようには見えなかった。

「あなたは、漁覇翁(イーバーウェン)様に、会ったことがないんでしょう」

「ああ、そうだ」

「見たことがないのに、どうしてそこまでわかるんですか?」

「おれは十年、ここではたらいて来た。顔など見ずとも、ジジイの行動に注意していると、いろいろ情報がつたわって来る。断片をつなぎ合わせれば、どんな人物かくらい、イヤでもわかっちまうさ」

「偽物を泳がすなんて、なんでまた……そんなことをする必要が」

「ニセモノを前へ押し立てておいて、ほんものは世間の耳目に触れぬところに、身をひそめていたいんだろうよ」

男は、吐き捨てるように言った。

「そんなら、私がここへ来たのは、無駄足だったんでしょうか? 今日から来いと言われて、参上したんですが」

「おれが案内してやれればいいいんだが、居場所は知らん。会ったこともねえしな。一人でこのへんを歩きまわったって、さがし当てるのはむずかしいと思うぞ」

「はあ……」  

えんえんとつづく屋根瓦が、あきらめろと言っているように思える。森に入って、どこかにひそむヌシを、さがし当てるようなものだ。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『花を、慕う』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。