話をアメリカにいた頃に戻しますと私は大学で映像工学を専攻していましたが、その成果を実践したくてうずうずしていました。

しかし、その私の希望を打ち砕くような事案が勃発ぼっぱつしました。私と尽条に突如大学から、退学措置が命ぜられたのです。理由を聞くとなんと授業料未納でした。尽条との付き合いでついうっかり彼のペースに巻き込まれ、授業料のことを忘れていたのです。

私と尽条はインドに渡りました。コルカタで河西導師と宮市嬢に初めて会ったのがこの頃です。尽条は其の後インドネシアに渡り姿を消しましたが、宮市嬢の数奇な運命には頭が下がりっぱなしでした。

それから七年の間、私はコルカタのぬし然として映画撮影所や演劇界に出入りを始めていました。撮影所では技術者として働き、アメリカでの知識技術が大いに役に立ちました。涯鷗州氏と会ったのもこの頃です。私は氏には自分のことの多くを語りませんでした。

そのためか私自身の素性が尾ひれを付けた形で広まり、実際以上の形となって広まってしまいました。私自身も仏教に共鳴し、河西導師の生き方に大いに賛同し活動を共にしていました。そして、忘れもしない奇跡が訪れたのです。それはコルカタで舞台劇の稽古をしている時でした。

その舞台劇で私は世親せしん、つまり、インド仏教における唯識学ゆいしきがくの創設者ヴァスバンドゥの役を演じていたのです。公演初日を三日後に控え稽古は佳境に入っていきました。その日、舞台で私は突然気を失ったのです。私を介抱する人達、心配そうに見やる人達すべてを私は記憶しています。

やがて正気に戻った私は以前とは全く人格が変わっていました。劇の内容から登場人物のすべてのセリフ、劇場スタッフの仕事、それから劇に関係するすべての宗教的かかわりなど、全部を完全に理解し記憶し的確なアドバイスまで自然と出るなど今までの自分とは別人格となっていたのです。

私はその時から何か理解不能な声を頻繁ひんぱんに聞き始めました。性格も随分と図々しくなり、気軽に誰かれなく声をかける自分に、驚き呆れることも多くなりました。創作意欲も以前に増して強くなり、コツコツと一人でシナリオ、台本を書き連ねていきました。撮影所での技術者としての私は、革新的な技術を次々と編み出し誰をも驚かせていきました。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『マルト神群』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。