1834年、医学寮設置(未だ漢方が中心であったようであり、学校自体は日ならずして自然消滅したようであるが、長崎で学んだ支藩蓮池藩の蘭方医島本良順が寮監に任命されたことから、これを機に蘭学の組織的な研究が始まったといわれる。)。武雄鍋島家の邑主鍋島茂義、家臣に長崎で高島流洋式砲術を学ばせる。

1837年、鍋島茂義、その世子茂昌に種痘を接種させる。

1844年、火術方を設け洋式砲術の研究を促進する。

1849年、藩主直正、世子淳一郎、その弟皆次郎、長女貢姫などに種痘を接種させる。

1850年、反射炉の築造始まる。

1851年、砲の鋳造始まる。慶応年間までに271門を製造。医学寮を再建、蘭方の教授を本格化。付属施設として蘭学寮を設置し蘭語を教育。

1852年、精煉方なる研究機関を設け、煙硝・雷粉の試験その他の軍事技術の試験研究を始める。後には蒸気船や電信機の研究も。

(1853年 ペリー浦賀に来航)

1854年、蘭学寮の管理を医学寮から火術方に移す。三重津に造船所を設立。

1858年、医学寮を好生館として本格的に移転整備。三重津に御船手稽古所を設立。

1865年、三重津で蒸気船凌風丸完成。長崎に英語学校設立。

海外渡航については、どうであろうか。

攘夷の権化のように言われている長州藩士吉田松陰が、1854年にペリー艦隊の黒船での密航を図り、失敗して獄に繋がれたことは知られているが、幕府の強い禁制の下にあっても、先進的な藩や藩士の中には、どうにかして西欧の文物に直接触れたいという願望は鬱勃として存在した。

1860年、幕府は、1858年に調印した日米修好通商条約の批准書交換のため、新見正興を正使とする使節団をアメリカに派遣することになった。

使節団は、アメリカの軍艦ポーハタン号に乗る新見以下77人と、随行する幕府軍艦咸臨丸に乗る軍艦奉行木村喜毅、船将勝海舟以下100余名とからなっていた。

この中に、この機会に西欧の事情を観察させたいと、少なからぬ藩がその藩士などを団員の従者として潜り込ませようとした。咸臨丸に潜り込んだ福沢諭吉は有名である。

そうした中に奥羽越同盟仙台藩の玉虫左太夫の名も見え、玉虫は帰国後出色の渡航記を書いたという。しかし、保守的な仙台藩ではせっかくの知見も生かされることはなかった。玉虫は奥羽越同盟の結成に奔走することになり、戦後は藩内抗争の犠牲となって切腹させられている。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。