一方で学歴なんかなくても、徳を持つ人もたくさんいて、育った村には貧しさと闘い、心の温かさ、情の深さを身にまとい、悲しみをきちんと引き受けてきた人が多い気がする。

私には中卒だけど、人情の機微に溢れる友人も何人かいて、見習うべきものがたくさんある。ささやかなことに真心を尽くすこと。小さな幸せを懸命に生きる人は、あまり多くを求めない気がする。そんな思いが強くなり、私もまた、そのように生きていきたいと思うようになった。

この日出会った本は、西谷啓治(京都学派の哲学者)の『神と絶対無』と題した一冊の本であった。ドイツ神秘主義を代表するマイスター・エックハルトと禅、ひいては大乗仏教との不思議な照応を綴られた、救済の著書である。

昭和二十三年発行のこの本は、私が購入した古本の中で一番みすぼらしい、悲しい本である。紙は茶褐色に変色し、シミだらけ。おまけにページをめくると、一枚ずつ剥がれていくのだから、手の不器用な私は困り果てた。

何とかテープを貼り、応急処置をし、やっと読めるようになった。難解な本にもかかわらず、数日、心躍る思いで読み続けた。

私は今年七十歳を迎える。三十二歳の時、国の指定する難病、膠原病の一種である全身性エリテマトーデスという病気を発症した。薬の副作用のせいもあり圧迫骨折を起こし、身長が七センチメートル縮み、ほぼ寝たきり状態になった。そして鬱病にもなった。完治するまで七年かかったが、この時期は私にとってやはり過酷であった。

その二日前は、主治医の片寄智規先生の受診日であった。先生は東京の白金台にある、東京大学医科学研究所附属病院(通称・医科研)の内科医でいらっしゃる。この大変な時期に、診察して頂けることが嬉しくて仕方がない。いつも私の話をよく聞いてくださる。

その日私は、「病気になって良かったと思っているんですよ」と今の心境を伝えた。

病気の本当の苦しさは誰にもわかってもらえないし、逃れることもできない。そうして過ごしてきた年月に、後になって深い意味が隠されていたこと。危機の時こそ本当に大切なものに出会った気がしている。

そして不思議なことに、むしろ生命が躍動している感じさえする。

なぜそう思えるのか。ここまでに至ったささやかな人生の軌跡を書いてみたいと思う私がいる。この執拗な思いは、十年近く続いている。なぜなのだろう。自問自答してみるのだが、答えはなかなか見つかりそうもなかった。きっと自分のために書きたいのかもしれない。

そして私は、『神と絶対無』から漂うかすかな光に導かれるように、今まで綴った文章を読み返したり、新たに原稿用紙に向かった。

これは人生の苦難に陥ったりした時、どのように救われ立ち直れたのかを書きためた、あくまでも一人の人間に起こった内的経験の、一事例としての拙い試みである。

※本記事は、2021年9月刊行の書籍『永遠の今』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。