江戸時代の幕開けを支えた経済人

了以の実家である「嵯峨の吉田家」は足利将軍家以来、代々の将軍家に学問と医学の力を持って仕えた家である。その吉田家が副業としてきたのが土倉である。当時の金融業ともいうべき、その土倉業を継いで大きくしたのが吉田与七、後の角倉了以である。

河川を開削するというような大工事のノウハウは吉田家にすでにあったと考えられている。そして、その大工事の資金はすべて土倉・角倉が負った。当時では国内最高と言っていい吉田家の「学問」と角倉家の「資金」が見事に結合して成した大事業だった。

長い戦乱の世を終わらせ、世界に例を見ないほどの長きに渡る安定的な世を創ったのは徳川将軍家であるのは間違いない。だがその新しい世のために働いたのは武士階級だけではない。

京都のインフラ整備だけでなく、江戸幕府の依頼を受けたさまざまな建築や金銀銅山の開発にも力を貸し、富士川の開削などに力を尽くした角倉了以・素庵親子の働きに代表されるような経済人の活動があったことを忘れてはならないと思う。

武士ばかりが時代の表で評価されているが、たくさんの事業を成し、国家を支えた経済人の役割がまったく理解されていない、というのが私の切歯扼腕するところなのだ。経済人の働きももっともっと知られるべきだと思う。

了以は保津川、高瀬川二つの河川の工事という大事業を公の援助を得ず、土倉・角倉と吉田家の力を結集した私企業の仕事として行ったのである。京都と大坂の物流を大幅に可能にしたこの人工の高瀬川は京都の町に画期的な繁栄をもたらした。

現在、高瀬川沿いの町がどれほどの繁栄をしているかは説明するまでもない。京都の繁華街は高瀬川を中心に発展を遂げたといっても過言ではないだろう。角倉了以という人物は、長い戦国の世が終わった江戸という時代の始まりに、相次ぐ戦乱で荒れ果てた京の町の復興を賭けて、この国の、また京都のインフラの整備に力を尽くした人物なのである。