日曜日、約束の場所に行くと普通の民家に案内された。三十人くらいの人が集まっており軽く会釈して座の末席に加えてもらった。経文の解説も法話もなく、山陰の知事選挙の話ばかりで、この地区から何人が籍を移した。名前を読み上げる度に歓声と拍手が起こり、場違いな所に来てしまったと思うと同時に、此の会にいると選挙マシンになってしまうと思い、次回からは参加を固辞した。

私と家内が一緒になるとき、信仰しているがいいかと聞かれ、何を信仰していてもいいがよりよいものがあればそちらに移ろうとだけ言うと家内も納得した。

毎朝白い襷をかけ日捲りのようになった霊鑑の前に、コップ三個に水を供えお経を唱えている。神仏を否定するよりは好ましい行いではあると思った。

家内の実家は真言宗であるが仏壇の中は霊友会の祀り方で日捲り状態の霊鑑と水の入ったコップが三個供えられている。家内の義兄が地域の役員をしており、人望があり大勢の人から信頼されているような人で、また、人当たりが良かった。親戚関係はもちろん地域の多くの人が霊友会に入ったのは義兄の功績に思われる。

家内の家の法事で大勢の親戚の人たちが集まっていたとき、私によければこの本を読んでみてと三冊の本を渡された。そのうちの一冊を手に取り、目の前で開いたページに気になることが書かれていた。大乗経典は釈尊入滅後、四、五百年してから順次形を成していったというのが、今日の学問が知り得た事実なのだ。

お経をよく知らない私は、経典はすべて御釈迦さんの教えを記したものと思っていたので不思議に思い尋ねた、この部分を小さな声で読むと少し沈黙のあと他の人から声がかかり義兄はそちらに移っていき、此ののち勧誘はなかった。

霊友会会長の久保継成という人が書いた『在家主義仏教のすすめ』と題された本で、東大で学び仏教学はないのでインド哲学を学んだという。仏教を、経を知らない私は此の本からいろんなことを教えてもらった。読み返すたびに新しいことを教えてくれる本である。

或る朝、家内の読経が終わったので青教鑑といわれる教本を見せてもらった。毎朝聞くともなしに聞いている中で面白い箇所があったからである。

我の心得違い。思い違い等は赦し給え。知らず識らずに犯したる罪咎は。霜露の如く作さ令め給え。諸仏諸天来臨擁護なさしめ給え。

この箇所を読んで、ニヤニヤしていると、不思議そうな顔をして尋ねるので、「毎朝の読経はいいと思う、しかし、読経によって罪咎が朝露のように消えてなくなるのなら、苦労する人はいなくなるだろうな」と言うと二人で大笑いになった。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『市井の片隅で』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。