諸星玄臣は柴幡で乳兄弟の吉三と一緒に育ったのである。諸星の仲間には吉三の他に、歳の若い卯吉と八重がいた。

卯吉は加持惣右衛門がまだ新宮寺司と名乗っていた頃、新宮寺家で女中をしていたお米の弟である。新宮寺司が城下から離れた一の目川の上流の山にこもり、修行したことがあったが、そのときに麓から米を運んだりして世話をしたのが卯吉である。

新宮寺司はあるときから卯吉に石を投げてもらって、それを木刀で払うという修行をした。それを目撃していた諸星が、卯吉に飛礫の素質があると引き取ったのだ。身の軽い卯吉は修業を積み、いまでは壁を駆け上がり、体を真横にして三間以上走れるほど身軽になった。

八重は諸星家一族の下津枝という家の生まれだったが、一歳になったばかりのときに、二親とも病気で亡くなり、諸星一族で柴幡の街道沿いに茶店を営む夫婦の元に預けられた。そこは、表向きは茶店の体をしているが、裏は広く、切り立った崖のそばまで畑である。

崖の側に物置き小屋があり、そこが諸星玄臣の隠れ家でもあった。畑は作物を守るために竹などで矢来やらいが組んであるが、それらすべて武器にすることができた。太くて長いものは竹槍、割ってあるものは弓、篠竹の囲いなどは矢として使える。

諸星玄臣は、ときどき顔を出しては、八重に忍びと飛礫の技を教えた。八重は一人裏山で走る、跳ぶ、木の枝で宙返るなどの体術に励み、また、木に吊るした的をゆらし、それに飛礫を当てる技を磨いた。

柴幡は木の生い茂った山々が続き、そのなかに間道のような小道が幾つもあった。村人が炊きつけの柴をかり、山菜やきのこをとるためにつくった山道である。それらは人知れず忍田郡にも行け、隣藩に続く街道にも出られた。八重はそこの地形を熟知していた。

山にわけ入って、一通りの日課を終えると、小さな流れがつくる滝壺に向かう。汗をかくと、そこで体を洗うのを日課にしていた。山道は起伏が多いため、八重はじきに一刻で十里近く走れるほどの走力と持久力を身につけた。

その走力が、十年前、加持家一家惨殺事件のときに活かされた。そのとき、八重は柴幡から二河城下まで走り、事件の襲撃者のなかで唯一の生き残りであった渡六郎平が、江戸に向かって出奔したことを、目付頭の陣内与左衛門に知らせたのだ。陣内は馬で柴幡まで駆けつけ、これから、渡六郎平を追うという諸星玄臣からそれまでの経緯を聞いた。

その後、八重は藩の江戸上屋敷に奥方付きの女中として入り、武家のしきたりを習った。それで、脇坂家老の屋敷に賄いの手伝いとして入りこみ、八重がいれるお茶がうまいと気に入られ、奥座敷にも出入りが許されるようになるのである。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『祥月命日』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。