俳句は「掛け算」?

俳句の出来栄えは、「句材」×「季節感(季感ともいう)」×「表現」の掛け算で決まるのではないかと、私は考えている。

この句材、季節感、表現に、私は独断と偏見でウエイトをつけている。句材はゼロか一、季節感は一から三、表現は一から五としている。例えば、句材が一、季節感が二、表現が三ならば、その積の六が、その句の出来栄えとなる。各項目で最高点ならば、十五点でこれが満点である。この数値が八点以上ならば、合格の句と仮定する。

すると、「季節感」と「表現」が満点でも、「句材」がまずくて零点ならば、結果は零点で不合格である。すなわち、「句材」がよくなければ、他の要素がどんなによくとも、句とはならない。料理と同じように俳句も、悪い材料は極力避けなければならない。句材がよくないと、腹痛は伴わないものの、読み手に冷たく無視されるという症状を呈する。

避けた方がよい句材

散々失敗を繰り返したので、句材として相応しくないものは自信を持って言える。

・駄洒落や地口などの言葉遊びや穿ち・常識、格言、当たり前のこと。「それはそうだよね」とか「それがどうした」という冷めた反応しか返ってこない

・理屈、原因と結果、単なる報告・生の感情や主観・物事のネガティブな面を強調して詠むなど、人が不快な思いをするような事柄

・明らかにあり得ない絵空事(無理)

・否定的、消極的な事象が続くことが予想され、読み手が不安に思うようなこと

・一般に過去や未来は俳句には向かない。現在を詠むのが俳句だ

・その他、俳句に詠むに値しないつまらないこと(詩にならないこと)

より具体的に説明するために、かなり極端な例ではあるが、満開の桜の根方のゲロ(へど、嘔吐物)を、取り上げよう。

まず、ゲロは気持ちのよい物ではない。見るからに汚く嫌な匂いもする、知らずに踏んだりしたら不快な思いをする。だからこの句材は、人を不安にする。

桜はきれいだが、一方、それを見る人間は花見酒に酔ってゲロを吐くような汚い存在だなどと、対比して詠むと、つまらない主観そのものの句になる。ゲロは桜の養分になって、きれいな花を咲かせることを助けるだろうと詠んだら、理屈の句である。

この桜が、下呂温泉に咲いているとしたら、低俗な駄洒落である。ゲロがやがて乾いて、土ぼこりになって、空に舞い上がるだろうとしたら、未来を詠んでおり、現在を捉えるという俳句ではない。

このようにどの観点からも、桜の根方のゲロは俳句の句材としてふさわしくない。そのようなものを、面白がり、新しい句材を発見したなどと思わずに、桜それ自身に注目して、句作りをすべきだろう。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『春風や俳句神様降りてきて』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。