ところで、生物、とりわけ動物が、進化的に意識をもったと考えられるのは、いつ頃なのでしょうか。

もちろん想像でしかありませんが、単細胞生物には意識はないと考えていいように思いますので、多細胞生物、中でも中枢(脳)という構造をもった段階で、意識をもつことが想定されてくると思います。ここで私は、意識が生じる前の段階での中枢の機能というものがあって、その後に意識が生じてきたのではないかと考えています。

意識が生じる前の段階とは、さきほど申しましたような、生体としては何らかの認識システムは作動しているとしても、意識はされていない状態に似ているようにも思うのです。

個体にとって、このように、認識はされていても意識はされない状態を精密にコントロールすることの必要性から意識という現象が生じてきたのでしょうか。だとしますと、意識は、感覚の鋭敏化や統合の機能の必要性などから生じたということなのでしょうか。

さらに、感覚から行動への直接的、反射的な移行反応だけではなく、感覚入力から行動を起こすまでの時間的なタイミングや行動の多様化とその選択に対する思考過程の存在の必要性、また、敵に襲われるなどの際の恐怖などの感情の芽生えが、意識現象が生じるきっかけとなったということなのでしょうか。

ところでよく、心の中で意識されているのは氷山の一角で、9割以上は無意識の状態といわれますが、これは、そのときその瞬間に意識されていることはごく一部で、それ以外の大部分はいわば記憶の中にしまわれている、という意味にもとれます。

また無意識で行われていると思われる認知活動も、ある程度の量や範囲があると思われ、それ以外の、認知活動に関係していない部分というのは、やはり記憶の中にたくさんあると考えられるのです。

ここで、何かについてアウェアネスをもっている、何かを意識しているという場合、その意識される対象とは何かということですが、これには大きく分けて四つあると思います。

一つめは感覚、二つめは思考、三つめは感情、四つめは自分の行動に関する意識です。私達の意識している内容というのは、いつもこれらの四つのうちのどれか、あるいはこれらが合わさったものと考えられます。

例えば何かを見ながら、それについて何かを考えれば、見るという感覚と、思考することが同時に意識されるということですし、何かを見て、考えながら感動すれば、見るという感覚、思考、感情が同時に意識されるということになります。また、皮膚に痛みの感覚が感じられ、不快な感情が起きれば、感覚のあとに感情が意識されることになります。

ちなみに何かの感覚が感じられると、それに伴ってほとんど同時に思考がなされ、純粋な感覚とはどこまでで、どこからが思考なのかよくわからない場合もあるかもしれません。また、自分の行動に対する意識(または認識)は、次にとるべき行動のために、いつも必要なものとなります。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『「意識」と「認識」の過程』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。