名前、名前と思いながら帰ってきたんだが、あとはわからない。目覚めたら冬の朝が明けていた。晴朗な気分で眠りから醒めた。それから昨日の大騒ぎを思い出し、淳さんの苦闘と自分の無能の対照を思い出したがこの際頭から押し出した。行かなくちゃ!

そして腹が減っていることに気付いた。淳さんはどんよりしたまま、胸に載せていた手を差し伸べようとしたんだろう、諦めて眼で訴える。まだ大変か?

掠れた声で、死ぬかと思った。

怖かったね。眼から火花が飛んだ。激闘だね。口を利くのも大儀そうだった。そうか、偉い偉い。

俺は恐る恐るベビーベッドを視る。窄めた口、優しい顎の線、握った指。ひよこ模様の布団。

ずかずかと若い看護師が入ってきて、マッサージします。ベッドの背を上げて、無遠慮に胸を開けて乳房に変な機械を当てて。

「おっぱいが出ないから」

「え! この子、なんにも……」

ちゃんとお白湯上げましたよ。母乳たっぷり出さなくちゃいけませんから。

マグカップの半分くらいの瓶に少しの母乳を受けて、おしゃぶりの形のキャップを締めて、そいつで寝ている赤子の口をちょんちょんする。吸いつくようだと飲ませる。反応なければ起きて泣くまで放っておく。

淳さんは横になりたがる。痛むのと言う。どこが? 

麻酔で変な夢見たし。おやすみよ。元気になったら話そう。バッグのプレイヤーかけて。アイネクライネが流れ出る。

「早や手抜き。いっしょに寝てしまう」

もう眠っている。体力消耗したんだなあ。寝顔に口付けする。布団の下でぺしゃんこになった腹を視る。病気じゃないと言ったって、病気より恢復は複雑なんだ……

親父と太洋が来た。小さいブーケを二つ。親父。小さい声で、これはこれは……太洋。

最初に視た顔が焼き付くらしいよ。眼醒まさないかな。二人ともまだ夢現らしい。静かにしといてやろう。

俺も家にB一〇と画帳を取りに帰って、一日中静かに淳さんと息子を写生していた。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『フィレンツェの指輪』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。