抜け荷の行われる入り江

そこを選んだ一番の理由は、南の藩境の坊の入り江は人の立ち入らない危険な海であるうえに、そこに流れこんでいる蕪木川の河口は萱や薄が生い茂る湿地帯で、次席家老である脇坂兵頭の知行地に繋がる土地だったからである。

坊の入り江の南岸は藩境で、山から坊の岬という岬にまで繋がる断崖で区切られ、北側はいびつに広く開いた形の砂浜が続いている。入り江の真んなか近くには満潮時にも沈まない岩礁が連なっていた。それは、大昔に起きた大地震で南の断崖が崩落したときの名残である。

その後も、蕪木川がたびたび大洪水を起こし、南側の断崖を削り、入り江中央の崩落した巨大な岩石を侵食したりして、いまの状態になった。ここが海の難所として知られているのは、北寄りの風が吹くと、坊の岬から続く断崖のために、入江に向かって風が集まり、身の丈以上の波がたつからである。

さらに風は坊の岬から続く岸壁に誘導されて蕪木川をふきあがる。おかげで蕪木川下流域は塩害のひどい痩せた土地であった。坊の入り江は北風が吹くと波が高くて舟を簡単に操れないが、風がなく上げ潮になると蕪木川が流れ込んでいる坊の岬側は穏やかになることがあり、勢戸屋はそこに目をつけた。

坊の岬沖で荷を小舟に移しかえ、坊の入り江から蕪木川を遡る。蕪木川が入江に注ぐ河口付近は、人の背よりも高い萱や薄が茂る浅瀬がつづき、そこよりちょっと上流の葦原のなかに、杭を打って板を渡しただけの桟橋がつくられていた。そこが抜け荷の荷揚げ場所だったのである。桟橋の傍らには見張りがいる掘立小屋がある。荷はそこで人が担いで運べるように小分けされた。

その小屋からの細い道は、和気という土地の大きな農家風の一軒家に至る。そこは脇坂兵頭の知行地内であった。抜け荷は荷揚げ用の桟橋と掘立小屋の位置をときどき変えながら長年行われていたが、異国船の海難事故が起きて、坊の入り江はにわかに人の出入りが激しくなり、勢戸屋はしばらくの間、鳴りをひそめるより他なかったのである。

抜け荷は重罪である。長崎でオランダと中国としか貿易が許されていなかった時代で、発覚すれば死罪となり、財産は没収される決まりである。また、連座制であるため一族が罰せられた。このように抜け荷をやるにはそれなりの覚悟がいるが、勢戸屋は廻船問屋であるから、海上での瀬取りによる受け渡しのコツを覚えると、後は楽なものだった。

問題は荷揚げをした後のほうで、人目につかないようにするためには、勢戸屋だけでやれるわけもなく、そこに脇坂兵頭が関わっていた。勢戸屋は脇坂が二河郡の代官だった頃から取り入り、脇坂が出世するための賄賂の資金を供与した。脇坂はその見返りとして、勢戸屋に砂糖の専売権を与え、知行地内に抜け荷の荷の一時保管場所を提供するなどの便宜を図ったのだ。

南の藩境を流れる蕪木川は、東の山間部から流れ出る宮川と篠川が合流した川で、藩境の山々に沿って坊の入り江に注いでいる。蕪木川中流の北陸街道がさしかかるところには蕪木橋が掛かり、そこに関所があった。

そこから少し下ったところから下流域が脇坂家の知行地である。蕪木川の中流域は日当たりも良く、米が良くとれた。それに比べると、下流域は海からの風で塩害のひどい荒れ地で、人の住まない土地であった。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『祥月命日』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。