しかし『戦陣訓』は、発案者の意図とは外れ、その中の一項目「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」のみが喧伝された。このため太平洋戦争中多くの兵士や時には民間人までが、無用にその命を失う元となった。

それでも『戦陣訓』には、発案者の本来意図したところも、次のように規定されていた。

「本訓其の三 第一 戦陣の戒

六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。  

徴発、押収、物資の燼滅等は總て規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。

七 皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。

八  戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は欲情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を誤るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。」

肥前藩 宮さん宮さん

ところで、明治維新は「薩長土肥」の4藩によって進められたと言われているが、これまで肥前藩の名は出てきていない。どうなっているのか。

戦前の小学唱歌にも取り上げられた戊辰戦争時の新政府軍の進軍歌「宮さん宮さん」は、作詞者を品川弥二郎とするのが一般的なようである。奥谷松治『品川弥二郎伝』には次のようにある。

「征討大将軍宮が錦旗を高く掲げて出陣し、薩、長軍の士気が大いに昂ると兵に、錦旗に因んだトコトンヤレ節が洛中洛外に流行した。この歌は品川がこれを作り、流行せしめたものであった。……(中略)……初めの二句をここに引用する。

一天万乗のみかどに手向ひするやつを、トコトンヤレ、トンヤレナーねらひはづさず、どんどんうち出す薩長土、トコトンヤレトンヤレナ。

宮さま宮さま御馬の前のピラピラするのはなんじゃいな、トコトンヤレ、トンヤレナー

ありや朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃしらないか、トコトンヤレトンヤレナ」品川弥二郎は、長州藩士で、維新期に活動し、明治になって、内務大臣や枢密顧問官を務め、子爵も授けられている。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。