老年期に至って思うこと

平成18(2006)年に小矢部市長を引退してからはや15年という時間が流れました。とはいえ、すでに私は老年期といえる年齢になってしまいました。そうなって感じるのは思うようにならない身体の衰え、病気になることへの恐怖、そして、何かをやろう、という気力の衰えです。

夜にベッドに入り、眠りにつく前のほんのわずかな時間などに、「もっと世界中旅行をしてみたかった」「やったことのない仕事に挑戦してみたかった」などという考えが頭をよぎります。しかし、もはやどうにもなりません。

この本を手に取った、まだ若い皆さんは、元気な間にやれること、やりたいことの全てに、果敢にチャレンジしてほしいと思います。それこそが、人間という種に課せられた使命なのです。

政治家を引退してからの私は一市民として生き、世の中を見て考え続けてきました。そんななかで特に気になるのは、日本という国と、そこに生きる日本人という民族の未来です。見るということもなく、今の世の中を眺めていて感じるのは、便利で快適になったぶん、何かが失われてしまっているのではないか、という危惧です。

たとえば、戦後の日本では、GHQ(連合国軍総司令部)の占領政策に基づいて「天皇陛下のため」「国のため」という価値観や教育が大きく転換されました。それまで自分たちを支えてきた「戦争に勝つため」という考えは全否定され、「戦争は悪だ」とこれまでの価値観がひっくり返されたのです。

そのため、若い夫婦たちの中には、自分たちが生きていくべき方向を見失ったり、子どもたちをどのように教育すればいいのか分からなくなったり、といったことも少なくなかったと聞きます。私は今の日本も、大きく価値観を変えなければならなかった終戦当時の日本に近いように感じてしまうのです。

ITやAIの進化・普及にともなって、私たちの暮らしは便利で快適になりました。しかしその一方で、ITやAIは将来的に私たち人間の仕事を奪うだろうと言われています。

たとえば、車の自動運転です。前の車や障害物、人間などを感知して自動ブレーキをかける衝突安全機能からさらに発展して、車はどんどん自動運転の方向へと進みつつあります。車が自動運転になれば、単純にトラックやバス、タクシーなど、車を運転する職業に就いていた人が職を失うことになるでしょう。ITやAIによって奪われてしまう仕事は、数え上げていけばキリがありません。

私が若かった頃には、今日よりも明日、今年よりも来年のほうが高い収入を得て、贅沢な暮らしができるようになる、と信じられる世の中でした。しかし、そんな経済成長もバブル景気の崩壊とともに止まってしまいます。

その後の失われた10年を経て、今の若者たちにとっては「経済成長って何?」という感覚だと聞いたことがあります。単に経済発展が止まって明るい明日を描けなくなったというだけでなく、これまで人間が行ってきた仕事まで奪われてしまったら、どうやって明るい未来を思い描けば良いのでしょうか。

この社会の変化は、経済から政治まであらゆるジャンルに及び、教育界においては一人ひとりの「考える力」を鍛える方向へと大きく変わっていくと言われています。この社会情勢の変化はもはや個人の努力でどうにかなるものではありません。

社会全体、人類全体の問題としてとらえ、私たち一人ひとりの意識、態度、生き方を変えていく必要があります。たぶん、想像力や創造性といった力こそが必要になっていくのでしょう。日本という民族、日本という国が、そのような変化に立ち向かえる国であってほしいと思います。