第三章 井の中の蛙井の中も知らず

日本の心

無念無想を極意とする日本の剣道において、一つの定型となったものに禅的思想が存在するのを否むことはできません。一刀流の開祖、伊藤一刀斎景久も剣の道を悟るべく鶴岡八幡宮に七日七夜参籠し請願を立てました。

満願成就の日になっても神のお告げはなく、絶望の末に帰ろうとしたその夜道、何者かが忍び寄る気配を背後に感じる間もなく刀を抜くと、賊は後ろに倒れていたというのです。

前方からの相手を正視し、倒そうとして倒したのではありません。気づいてみれば、既に賊は倒れていたのです。

直刀ではない反りをうった日本刀は、前方の敵よりはむしろ後方の敵を抜きうちざまに切るのに都合がよい刀です。世界でもまれに見る不思議な刀です。スピードもその時が最大だからです。

日本人が追求した至高の精神、日本人の心というものは剣道に限らずそれが何の道であれ、雑念のない「無私の精神」でなければなりませんでした。先祖たちは「この道」を総称し、「随神(カムナガラ)の道」と称しました。

それは神が下賜された「日本の心」であり、神に従う道として迷うことなく「この道」の者として日本人は生きていたのです。

先達の日本人、一休禅師も「分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」とその心を和歌に詠み、「この道」を謳いました。「敷島の 大和心を人問はば」とは、皆「この道」に生きる日本人なのです。

それは己の心に邪念がなく、無心であれば、自分の主観によって心を乱すことなく、相手を自分の中に映すことができるとする考え方です。したがって対象は、何でもかまいません。人間でなくとも花鳥風月の何でもいいのです。

この心を嘲り宗教多元主義の日本人などと訳知り顔で喧伝してきたクリスチャンこそが、「日本知らずの日本人」ではなかったでしょうか。つまりは「井の中の蛙」です。

一刀斎の極意をより分かりやすくしたものとして、北辰一刀流を開いた千葉周作が弟子たちに説いたという話もつとに有名です。

曰く「きこりが深山で木を切っている所に、サトリという獣が出てきた。珍しい獣なので生け捕ろうとすると、『オレを生け捕るつもりだな』と当てられ驚いたところ、すかさず『驚いたろう』とまた言われてしまった。

きこりは頭に来て殺してしまおうかと思ったら、『オレを殺すつもりだな』とまたまた言われた。これにはきこりも舌を巻き諦めてまた木を切り始めると、今度は『諦めたな』と笑われてしまった。

癪にさわったが、きこりにはどうすることもできない。だが無心で振りおろしたその時、斧の頭だけが飛んで行ってこのサトリに当たり、死んでしまった。剣の道もまた然りである」と教えたのです(千葉周作剣法秘訣所収)。

人の心が読めるサトリといえど無心が相手では何もすることができないと、門弟たちに教えようとしたのです。

いささか神がかり的な話ですが、日本人はこのような譬え話が大好きであり、文武にわたって「無我の境地」を至高の精神と考えていたのは間違いなさそうです。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。