「藩に貢献したあるいは藩経済に多大な影響を与えた商人として、大水害時に藩民を飢えから守った御用米問屋の浦紗屋、あと、藩に織物産業を定着させた呉服屋の阿佐美屋、そして自分とは通じるところがあったけれども、油問屋の蔦屋は菜種油を藩の特産品となるまでにしたことは確かだ」

と、話した。

隼人も浦紗屋と阿佐美屋とは浅からぬ縁がある。

勘定方にいた隼人が剣の腕を買われ、勘定方吟味役として、藩始まって以来の大事件であった加持家一家皆殺し事件の原因となった江戸藩屋敷での公金横領事件を調べるべく江戸に出向いたことがあった。

そのとき、心臓の病のため江戸で静養していた浦紗屋の主の太平を訪ね、都野瀬軒祥が農政にかこつけて競争相手の椎賀清衛門を押さえ筆頭家老になった経緯を聞いた。

また、阿佐美屋藤平からはもっと悪辣な話を聞いた。それは都野瀬軒祥が油問屋の蔦屋のために、元用人の加持家の屋敷を取り上げ、後でそれを蔦屋に払い下げるなどの便宜を図ったというのだ。そのとき、莫大な賄賂が動いたと言う。

隼人はこれらの話を家老の岩淵郭之進にはかり、都野瀬軒祥を失脚に追い込んだのだった。軒祥はそれを知ってか知らずか、話を続けている。軒祥にとってもはやどうでもいいことのようだ。

最後に、隼人のこれからどうしたいかとの問いに、都野瀬は顔をちょっとほころばせて、城下には戻らないと言った。いまは、ふもとから毎日のように山を登って来る奈津という女の子に手習いを教えるのが楽しみなのだと付け加えた。奈津というのは軒祥の子である。

それで、隼人は、郷入りは郷入りだが、宝達山の麓に、軒祥の世話をしている茂作夫婦の隣に仮屋を建て、奈津とその母親の久美と暮らせるように手配りした。軒祥は茂作とともに狩りや川魚漁をし、畑を耕し、奈津に手習いを教えるなどと、忙しくしていると言う。

隼人はそんなことを思い出しながら、浦紗屋太一が城下の様子を話すのを聞いていた。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『祥月命日』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。