父は生きていた

幸いにも原爆投下後、五日経って岸川の蔵のなかで一家は再会できた。

運よく父は原爆の落ちた八月六日の朝、勤務先の資材を疎開させていた広島市内から四キロ余り離れた矢の口へ行き、駅で汽車から降りて歩き出したちょうどそのとき、ピカッ! と強い光線を浴びて、頰に熱いと感じるような感覚を覚えたそうだ。

父はすぐに広島へ引き返した。市の中心地にあった勤務先は跡形もなく目茶苦茶に壊されていた。あと片付けや行方不明の親戚や同僚などの消息を探すのに時間がかかり、家族のことも心配だったが、すぐには八重へ戻ってこられなかったそうだ。

真蔵おじは建物のなかにいたので熱線による火傷は免れ、倒れてきた柱のなかから必死に抜け出して市内を自転車を担いで逃げ、疎開していたスミおばの郷里の三次まで自転車をこいで向かったそうだ。

父は放射能で汚染された広島市の中心部には――七十五年間は草木も生えない――と報道されていたので、家族を広島へ連れ戻そうとはしなかった。

空き家を見つけて引っ越し

だが、蔵のなかの生活ではみじめだと思って、翌日には県道沿いの十日市に近い新地に、こぢんまりした一戸建ての空き家を見つけてきた。

そこへわずかしかない家財道具を近所で借りた大八車に載せて引っ越しをした。兄の真一とMは疲れている父を一生懸命に助けて、車の後押しをしたり、荷物を運び込んだりして精一杯手伝った。

Mたちの次の住居は中古住宅で六畳と四畳半の部屋と台所の間取りだった。風呂も便所も屋根の下にあった。

借家の前には道を隔てて大家の雑貨屋があり、その左隣は二階建ての古い旅館だった。裏手には小高い山裾が迫り雑木が茂っていた。父は新居に一泊して家財を片付けただけで、家族を置いたまま一人で広島へ引き返していった。