阿佐美屋はそんなことをおくびにも出さない太一を、将来、藩内の商人を束ねる器の持ち主だと紹介した。太一は悪びれもせず、にこにこと笑っている。

世間話をしながら、阿佐美屋がヒラメのおつくりを口に運び、「近ごろは競い合っているせいか、うまいものがありますな。贅沢なことです」と、満足そうに言う。金崎港で朝どれを活け締めにして舟で城下に運び、ちょうど良い旨みが出たヒラメである。

「それも、都野瀬軒祥殿のおかげだ」

都野瀬軒祥とは二代前の筆頭家老である。二十三年前の大水害のときは、都野瀬軒祥はまだ勘定方にいた。大洪水の被害は城下のみならず二河平野の収穫寸前の田んぼを泥の海にした。藩は幕府に災害援助と参勤の免除を申請せざるを得なかった。都野瀬軒祥は藩民に仕事を与えるために、復興事業として粗衣川の治水をかねて守谷口に人工池をつくることを提案した。

昔、粗衣川は守谷口の谷間に流れ込むために、その手前が広い河川敷となっていたのだが、粗衣川の氾濫がしばらく起こらないことに慣れて、遊所屋をはじめとする歓楽街が出き、たくさんの人で賑わった。それが、大洪水が起きて、一夜にしてすべて流された。

都野瀬軒祥は同じところに歓楽街をつくろうとする遊所屋の主たちを説得して、歓楽街は宮園神社の裏側の土地に移ってもらい、守谷口の手前にお玉が池という大きな緩衝池をつくり粗衣川と繋げた。その際に、都野瀬軒祥は商人たちから資金を調達し、守谷口から金崎港までの粗衣川を浚渫、拡張して運河とし、お玉が池に繋げたのだ。

それ以来、二河平野での粗衣川は金崎港と城下を結ぶ物流の重要な動線となった。出世して筆頭家老となった都野瀬軒祥は、次第に傲慢になり、藩政を意のままに牛耳るようになった。

その間、特定の商人と癒着するようになるのである。最後は惣領息子の祥之助が起こした加持家皆殺し事件に絡んで失脚し、その際に藩政の私物化が咎められ、北の藩境にある宝達山に郷入りとなった。十年くらい前のことである。その後の筆頭家老には、藩内の開墾に尽力し新たに五万石近くの米の増産を成功させた椎賀清衛門がなったが、椎賀清衛門の施策は武家の優位を取り戻そうと、襟を正す意味で質素を奨励した。

だが、その途端、何かがおかしくなったのである。武家は生産性がないのだが、時とともに、その生活が華美になって、元の質素な生活に戻れなくなっていたのがわからなかったのだ。米の増産に成功しても焼け石に水で、商人たちが経済の主導権を握るようになった世の中の趨勢には逆らえなかった。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『祥月命日』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。