「届、僕の欄埋めて送った。お祝いを言うよ」

「どうもありがとう。いろいろ、ありがとう」

「八汐は、会社の、できる若いのとは違って、僕らは好きだよ。君に尽くしてくれるよ。体調はどうだ?」

「……当たり前の成り行きが……怖くて……八汐くんは、ああいう人なの」

「そうか。バンケットに招いてくれたんだが、無理をすることはない。でも気分転換は必要だよ。出かけないか。うちでも街でも」

「……仕事が気分転換になっている……」

「お祝いをどんなにでもしてあげたい。なんでも言ってごらん」

「……八汐くんをわかってくれて、それだけで嬉しい」

「さすがに君だ、葵が育てた娘だ。お祝いは僕らの気持ちだ、受け取ってくれなくちゃ」

「考えてみる。ありがとう」

なんだかわかってきた。何がいやって。あの猥褻ながらくた。いま、ここにあるのは生命の神秘なのだ。太古からの生殖の秘密がそのまま、わたしに受け継がれる、一人の女に、一匹の牝に、このわたしに。わたしのあとも。

ここで断ち切ることがわたしを脅かすのだ。宗近の両親の血統……いいや、そんなことではない。井戸を覗き込むように、畏れを覗き込む。受け渡すこと、わたしから創生(はじま)ること。続くこと。死と等価の冷ややかな秘跡。何重にもヴェールを掛けなければ直視できないのだ。

本当に怖い、溌溂(はつらつ)と若くても、きっと。挑むのは……本当に怖い……

町田画廊が店に来いと言ってくる。忘れていた。画廊には相変わらず八汐の絵がある。楝(おうち)色のシールが貼ってある。

「全部売約しました。買い主は追々紹介します。個人は外れてもらった。あなたへのご祝儀にジムの絵は鷹原木工所さんにお渡しする」

これがいくら、これがいくら……手数料が……そのうち俺にはいくら? と思いながら聴いていると、カルトンに重ねた楝色の封筒に万札が分厚く載って、領収証にサイン。

「現金は最初だけにしよう。売値が妥当かどうか、わたしにもまだわからない。さて、描けていますか?」

「いや、ちょっと、取り込んでいて」

「描いてもらわないと。絵が動くシーズンというのがある。公募展を目指してください。賞を取れば売りやすくなる。わたしが応募するから、あなたはとにかく描いてください」

初めて見る大金に目が眩んでいるから、上の空である。

「描けるね」

念を押された。

「そりゃもう」

「できるだけたくさん、できるだけいいものを。トラック乗りの背景見ると、風景も行けると思いますがね」

封筒に札を入れる歓喜に満ちた表情を、町田は上品な微笑の裏から視ている。掘り出したのかもしれない。まあ、慎重に。淳さん、ほら!と札束を見せる時も子供が学校で賞を取って帰って母親に見せるのと違いがない。

「ね。車の頭金になる。頑張って産みなさいと何か、誰か、励ましてくれている!」

「ほら! 八汐くんは絵を描くように生まれたのよ」

自分じゃわからないが、淳さんが言うならそうなんだろう。描こう。

「描くよ。だけど、あなたの力になれなくて……」

「描いているのを見るのが楽しい。あなたがそう思ってくれるのが嬉しい。八汐くん……お産は何かとかかるの。入り様を書き出してみるわ」

「そうだね……あなたは偉いね……あなたは……ありがとう……」

産んでくれるんだ……たくさん描く。いいものを描く。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『フィレンツェの指輪』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。