原爆はピカ・ドンで落下した

まさにピカッと光って、ドンだった。その直後に南西方向にある山の上に、もくもくと白い雲が立ち上ってきて、きのこの形になって大きく広がっていった。Mは足が、まだ不自由で皆と一緒に駆け出せず、一人だけ遅れた。

初めて見る巨大で異様なきのこ雲を見つめながら、ゆっくりと教室に向かって後じさりした。まだ走ると足の裏が痛かったお陰で駆け出せず、まざまざと一生忘れることのできない瞬間的な情景を、しっかりと両眼に焼きつけることができたのだった。Mは直感的に広島市に新型の爆弾が落ちてきたのではと思った。

引っ越しの際、トラックの運転手から聞いたところでは、広島市から山県郡の八重までは直線距離だと二十キロくらいだが、山や谷をくねくねと走ってくると二時間半もかかり、走行距離は二倍の四十キロにもなるということだった。

母は松根取りの勤労奉仕へ

その頃、Mの母たちは朝の涼しいうちにということで早起きして隣組の婦人部隊で近くの山のなかへ松根取りの勤労奉仕に駆り出されていた。

そこから、母たちはもくもくと立ち上がるきのこ雲を見やり「なんじゃろうね」「へんてこな雲が上ってきよったよ」と見上げながら八重国民学校に大きな爆弾が落ちて、子供たちが死んでいるのではないかと心配して泣き出した。

Mは学校が早退になって家に帰ると、待ち受けていた母が抱きついてきて、「良かった。良かった。学校がやられたんじゃないかと思うたんよ」と、たがいに元気だったので喜び合った。

運ばれてくる瀕死の重傷者

その日の午後になると、Mたちが借りていた岸川の家の前の八重から大朝へ通じる県道を大八車やリヤカーなどに乗せられた瀕死の怪我人が次々と運ばれていった。

薄い布団とか掛ける覆いがなかったのか、焼け爛(ただ)れた体を隠すために蚊帳(かや)が掛けられた虫の息の人がいた。その蚊帳の網目から血と溶けた肉が噴き出していて蠅が何匹も留まっていた。