料亭村重は宮園北通りの武家地に隣接する早苗町の北に位置する仲町の外れにある。

そこから、さらに北に向かうと、その道沿いに、竹藪が一町ほど続く寂しいところがあるが、それを過ぎると上粗衣橋から寺町台に至る潮寺通りに交差する。

宮園神社の東寄りの裏側は、大洪水後に移転してきたご機嫌町と通称される飲み屋街と、新河原町と名付けられた遊所がある。そのあたりに河原はないのであるが、遊所が以前、粗衣川の河原にあったので、そういう名前がつけられたのだ。新河原町は、普段でも人通りが多いが、ちょっと外れた仲町の北側ともなると、閑静を通り越し、殺伐とした感じになる。そのぎりぎりのところに村重はあった。

阿佐美屋藤平は村重での城代家老の新宮寺隼人との会席に、藩御用米問屋浦紗屋の主の浦紗屋太一を連れてきた。阿佐美屋藤平は六十歳を越えているが、若い者には負けぬと元気で、いまでも江戸に行き来して、江戸藩屋敷にも出向いたりしている。

阿佐美屋の功績は、二十三年前の大水害で藩が逼迫ひっぱくしていたときに、武家の婦女子を中心に機織り機を貸し出して、織物を織らせたことである。それが、いまや、藩の主要産業にまで振興しているのだ。記憶力が良くて、人を大事にするので、阿佐美屋を嫌う者はいなかった。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『祥月命日』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。