闘病生活を続ける妻へ

私が妻の紀子と結婚したのは、大学院時代の昭和38年のことでした。池田勇人首相が打ち出した国民所得倍増計画のおかげで、まるで倍々ゲームのように給料が上がっていく時代でしたから、医師としてのアルバイト代でテレビや冷蔵庫を買うことができた時は嬉しかったのを覚えていますね。

将来医者になることは約束されているとはいえ、当時はまだ学生でもあり、苦労をかけたと思います。そんな妻のことを考えると忘れられないのが、日本でちょうど介護保険制度がスタートするタイミングだったので、視察と見学、勉強のために訪問したジュゼッペ・ヴェルディが建てたイタリアの老人介護施設のことです。

オペラで圧倒的な人気を得たヴェルディは、得た資産をもとに慈善事業や社会貢献活動などを行いました。そのひとつが、ミラノに設立した音楽家たちのための老人介護施設「音楽家のための憩いの家」です。

ヴェルディは、この施設を建てるにあたって、「養老院」「収容所」といった単語を使うことを断固として拒否したと言われています。「ここは収容所ではない。入居する人々は皆私の客人である」というヴェルディの強いこだわりから、「音楽家のための憩いの家」と名付けられました。

3000平米ほどの敷地に建つこの「憩いの家」は、設立から120年ほど経っているにも関わらず、細部にまで趣向を凝らした美しい姿のまま。ヴェルディの死後作品の著作権が切れるまでの50年間はその収益で運営され、著作権が切れて以後は多くの篤志家による寄付によって運営されているのだとか。

そんな施設の中庭には、ヴェルディ夫妻の墓が並んで建てられています。この墓を見た時に、なんともいえない感銘を受けました。実は、私の妻はパーキンソン病を患っています。発症は今から20年ほど前のこと。

途中までは持ち前の強い根性で市長の妻として毅然としていろいろと仕事をこなしてくれていました。そのうち、頭はしっかりしていますが、体の不自由を自覚するようになり「私はもうあなたのサポートは無理なのかもしれない」とめずらしく弱音を吐きました。

私は少なからずショックを受けましたが、同時に今の自分があるのは全て妻のおかげだと感謝の念が沸き起こり、涙が止まりませんでした。小矢部大家病院には新築した病棟がありますからそちらへ入院させることもできますが、娘たちやヘルパーさん、デイケアのスタッフさんたちの協力を得ながら自宅で看病を続けています。

ローソクの火がだんだん小さくなるように、妻の命の火も少しずつ小さくなっていっているように感じますが、最後の瞬間までできる限りの世話をして、最後はヴェルディのように、墓を2つ並べて一緒に入りたいですね。