巡礼天童

天童を訪れたのは12月22日、冬至の日であった。東京港の日の出は6時47分、家を出た時には、空は未だ墨一色で、浮かぶ雲との弁別もできなかった。

東京駅7時12分発の山形新幹線「つばさ」が、福島駅で仙台行きの「やまびこ」との連結を切り離し、奥羽本線に入りトンネルを二つ三つ過ぎると、左右の窓外は雪景色となった。しかし幸い米沢・山形と北に進むにつれ積雪は減り、天童の市街は、底冷えはしたが雪はほとんどなかった。

駅を出るとすぐ県道22号、かつての羽州街道、これを右に山形市方向に戻ると天童城の跡を通る。ただし江戸時代の天童城は平地の陣屋程度のものであったようで、今は普通に民家が建ち並び、城址を思わせる堀も石垣も何もない。庄内軍に街を焼かれ簡単に落城したというのも頷ける。

吉田大八ゆかりの場所は、県道を隔ててその向かい側やや奥の一帯に、古くはその上に城があったという舞鶴山を背にして、点在している。大八の墓のある寺、大八がそこで自刃した観月庵のある寺、そして観月庵と共に大八関係の資料を展示している旧東村山郡役所資料館である。

吉田の墓は寺の本堂手前左の墓地の中にあった。ややしおれ気味ではあったが供花も見られた。しばらく墓前で時を過ごす。今でも毎年6月には慰霊の集いがあると聞いた。

観月庵には、大八の自刃による血しぶきが飛んだという天井が今も保存されている。旧東村山郡役所資料館は1879年建築のレトロな建物であり、その展示室の一つが「吉田大八と戊辰戦争」の常設展示室とされている。観月庵とこの展示室に大八の「絶命の辞」が掲げられていた。展示室にあったその読み下し文は次の通りである。

衆口金をとろかす

豈信なるかな

郭は焦土となり

屋は灰となる

男児宜しく識るべし

義と不義とを

腰下の宝刀

冷を帯びて来る

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。