遠因

私が生まれた所は山の中腹で三十六軒で集落を構成し、講や組というもので細分化していた。私が生まれた家は六軒で講が構成され毎月旧暦二十日の夜に持ち回りで念仏をあげていて、お二十日講ともいわれていた。当番の家に各家の代表が集まり、鐘に合わせて念仏をあげ南無大師遍照金剛で終わる。

あとは世間話で盛り上がり酒盛りになる。大人たちはこれが大変楽しいらしい。集落の家すべてこうした講に入っていた。

或るとき姉に連れられて姉の友だちの家に行った。この家に行くのは初めてである。

姉は縁台床几に腰を据え友だちと話が弾み、私は暇を持て余していた。そのとき奥から私と同じくらいの女の子がトコトコ出てきて、「大きなったら嫁さんになっちゃるけんな」と一言だけ言うと奥へ引っ込んでしまった。

姉たちはあっけにとられ少し間をおいて「まー、ませたことを言う子やなー」と言って大笑い。これが私の因縁話の始まりである。

中学を卒業すると大阪へ出て来るのであるが、三年の三学期はほとんど学校へ行っていない。或る朝突然顔が腫れあがり目が開かないほどで、起きて椅子に座っていると少しずつ腫れが引いていくのである。

二、三日様子を見てみようと家でゴロゴロしていても体がだるくなり、症状は重くなるばかりで、三日目に病院へ行くと急性腎炎といわれ、一週間分の薬を貰って帰った。

百メートル歩くにも三回ほど休憩しなければ歩けない。山道は田や畑の岸ごとに腰を下ろす始末である。食べ物は塩分糖分は厳禁で、食パンと牛乳のみである。幸い家で乳牛を数頭飼っていたので牛乳は売るほどあった。

少しも症状が良くならないので母に拝み屋さんに連れていかれた。拝み屋さんといっても看板も目印もない普通の民家である。部屋に招かれ、目につくのは少し大きめの仏壇だけである。仏壇に向かいお婆さんが座り、母と私が後ろに並んで座った。お婆さんがお経を上げている間母と私は瞑目合唱している。

お経が終わるとこちらに向き直り瞑目合唱するように言い、私の額に指を当て、三回フウ、フウ、フウ、と息を吹きかけて終わる。三日に一度くらいの割合で通った。何回か通っているうちに田や畑の岸ごとに腰を掛けていたものが一枚とばし二枚とばしと良くなっていることに気がついた。通いだして一か月余りたった頃、読経が終わりこちらに向き直って「大丈夫、四月には大阪へ行けるでよ」と、言ってくれた。

三月の終わりごろ、家族全員野良仕事に出かけたあと、一人二階で寝起きしていた私は突然激しい吐き気を感じ、窓に凭れ黄色くてとても苦いものを屋根瓦一面に吐き出した。もう吐き出すものがないというほど吐き出すと瓦には幾筋もの流れた跡が残った。

その日以来みるみる元気を取り戻し、四月初旬に大阪にやってきた。仕事は楽しく、苦しかったこと等すっかり忘れてしまった。