彼女が読んでいた『指輪物語』はイギリスの作家J・R・Rトールキンの代表作で、翻訳出版された日本語版は、文庫本で全十巻近いボリュームがある。本当に好きじゃないと読みきるのは難しい。でも俺はこの作品の壮大で緻密な世界観やストーリーが大好きで、夢中で全巻読んだし、これの映像化作品であるピーター・ジャクソン監督の『ロード・オブ・ザ・リング』は、今でも一番好きな映画だ。

映画はともかく原作の『指輪物語』を読んだ人は、俺のまわりにいなかった。ヒカルもなかなかのファンタジー好きなのだろうか。

俺の試みは、いきなりうまくはいかなかった。計画通り三回目に遭遇した時、本の話題をふってみた。露骨に嫌悪感を示されることはなかったが、警戒心が解かれることもなく、会話にはならなかった。心が折れ、その日はもう話しかけることはできなかった。

俺は毎週行けるわけではなく、行っても彼女がいない日もあった。けれどあまりストレスはなかった。課せられたミッションとは関係なく、金曜日の仕事終わりに、このカフェで自由に読書できる時間が心地良かったからだ。だからそこまで気負うこともなく、行けるタイミングで通っていたら、十月に入って潮目が変わった。ヒカルが制服姿でいるところは見たことがない。

この日も私服姿だったヒカルが読んでいた本は、バートン版の『千夜一夜物語』だった。つまりアラビアンナイトである。世界的に有名な物語ではあるが、これをバートン版で読んでいる人は『指輪物語』よりもレアかも知れない。俺は一巻だけ読んで挫折した。ヒカルが読んでいたのは二巻だった。この子の文学リテラシーはもしかしたら俺より高いのではないか。

ちなみに俺はこの時、現代語訳の『古事記』を読んでいた。昨年、出雲大社から帰った後買ったのだが、卒論やら就職やらで半分も読まずにお蔵入りになっていた。桃と会って出雲の話が出てから、また読みたくなってきたのだ。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『金曜日の魔法』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。