第二章 終戦

2 終戦、そして沖縄への帰郷 

伯父たちが戻ってきた

故郷沖縄の戦況が日増しに悪化し、いよいよ本土決戦が囁かれる頃、満州に在住していた伯父たちから、早いうちに渡満するように勧められたことがあります。

行くかどうするか迷っている矢先、ソ連が参戦したために逆に満州が危険になり、伯父たちは急遽満州を脱出しました。着の身着のままの状態で、私たち家族を頼って二家族が熊本に来ました。

空き地を借りて部落の若者たちにも手伝っていただき、にわかづくりの家を建てて厳しい生活がスタートしました。

物心ついた女の人たちは、有り合わせの材料を使って蒸せい籠ろで団子を作り、それを売り生計をたてたものでした。

出来上がった団子は熊本市まで運んで換金するのですが、駅では闇商売の取り締まりが厳しく、子供たちが風呂敷に包んだ団子を持って鮨詰めの列車に乗り込み、水前寺公園や熊本駅で大人たちと落ち合い、闇市でそれを売ったものです。

別れ

大屋の桐原さんには大変お世話になり、幼い誠也ちゃんともいよいよ別れの時を迎えました。

学友の栗木君や田中君たちとは、中学校への進学準備を前に、共に学び、時には近くを流れる白川で水遊びをした懐かしく思い出深い錦野国民学校を後にして、三年振りに再び郷里へ帰る日が訪れました。

数時間の汽車の旅を経て佐世保港へ向かい、沖縄へと出発しました。何日間の船旅だったかは記憶にありませんが、船は那覇港の沖に停泊しました。

変わり果てたふるさと沖縄の姿

船の甲板から眺める島影には、緑の草木は見られず、一面地肌が剥き出しになっていました。疎開するまで慣れ親しんだ、あの美しい沖縄の姿はそこにはありません。

つい数日前に眺めていた佐世保の景色とは全く異なり、戦争の傷跡の深さを子供ながらにひしひしと感じ取ることができました。

疎開前の那覇の街の面影は全くなく、米軍のトラックやジープが往来しているばかりでした。

やっとの思いで下船が許され、トラックの荷台に多くの人々が積み込まれ、中部の収容所に運ばれていきました。そこでは、多くの疎開からの引き揚げ者がテントの中でたむろしながら順番を待っています。

それは、蚤(のみ)や虱(しらみ)を駆除するために大きな噴霧器から吐き出されるDDTの洗礼を、一人ずつ受けるためでした

DDTは今でこそ禁止されていますが、当時はお構いなしです。全身に猛毒のDDTを浴びせられるのです。髪の毛は真っ白になり、ある子は激しく咳き込んでいました。

今の時代では、とても想像することができない光景でした。

[写真1]敗戦後、米軍の兵士から食事をもらう飢えに苦しむ子供達
※本記事は、2020年3月刊行の書籍『 ひたすら病める人びとのために 下巻』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。