第二章 終戦

2 終戦、そして沖縄への帰郷 

戦争が終わった

一九四五(昭和二〇)年八月一五日、大屋さん宅の居間では、大人たちが、ひどく聞き取りにくいラジオ放送を神妙な顔付きで聞いていました。

その姿を子供ながらに見ていましたが何を真剣に聞いているのかは分かりませんでした。それが終戦を知らせる天皇陛下の玉音放送であったことは母から後に教えてもらいました。

長く、つらい戦争の日々が終わったのです。故郷から一緒に疎開してきた皆さんと一緒に、これで沖縄に帰ることができる、と喜んだものです。

父が帰ってきた

獣医の父は満州に徴用されていましたが、終戦の数カ月前に日本に戻って来ており、熊本の司令部に勤務していました。

終戦間もなく任を解かれた父が私たちの住んでいる地域に帰ってきました。

父は、除隊後の生計についてすでに決めていたようです。獣医師という本来の技術を活かすためには、現在の疎開地よりも、牛馬の多い阿蘇地方に転居したほうが良いとの結論を出しており、終戦の翌年春先に移ることになりました。

移転先は阿蘇郡錦野村字外牧というところで、幸い近隣にはふるさとからの疎開者もいて、容易に解け込むことができました。

農林業を営んでおられた桐原さんという方の、家の納屋を借りて住むことになりました。さっそく、その納屋を住居用に改装するための作業が始まりました。

手伝いに来てくださった大人たちは、裏山の竹林から孟宗竹を大量に刈り取ってきて、床に縄で固定し、その上に藁を張りつけていきます。

仕上げに茣蓙(ござ)を敷くと出来上がりです。ぜいたくは言えません。それでも立派な住まいでした。

終戦後の日々

食事は自給自足で、荒れ地を開拓し、薩摩芋や野菜を植えて食したものでした。

父と一緒に畑仕事の手伝いをしていたある日のことです。枯草を集め焼き芋をしていると、野兎のような動物が走り去るのを見たものですから、それを追いかけていきました。

夢中で追いかけているうちに、焼き芋のためにたき火をしていたことをすっかり忘れていました。たき火が檜(ひのき)の枯れ枝の上まで延焼しており、パチパチと激しい音に気がつき、父とともにやっとの思いで消し止めました。

大きな山火事に至らず、父と二人で味わったあの安堵感は、今でも忘れることができません。

また、男の大人たちは藁で米袋を作っていました。しっかりと丸めて、三袋ごとにまとめて縛ります。

それを背負って、まだ幼い五年生の頃にいとこと二人で、昼間でも薄暗い杉林の山道を越え、あらかじめ注文を受けていた農家に届けました。物々交換で、帰路はお米を背負って帰る日々もありました。

いまだに決して忘れることのできない、悲しい思い出があります。

疎開先の暮らしは現金収入も乏しく、生活に必要なものは物々交換でした。しかし、沖縄県からあわてて疎開してきた私たちに、食料などに交換できるほどのものはそうそうありません。

そこで、しかたなく母は大切な和服を持って隣村の商家を訪れ、必要なものを手に入れることにしました。母が若い頃の思い出の品として、ふるさとから疎開先まで持ってきた大切な和服です。

母と一緒に数度にわたって隣村の商家に物々交換をしに行きましたが、生活のためとはいえ、思い出の和服を手離した際の、母の深い悲しみと諦めの表情が、つい昨日のように思い出されます。

※本記事は、2020年3月刊行の書籍『 ひたすら病める人びとのために 下巻』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。