第二章 原点への回帰

第二節 米子

夏が近づくに()れて、そんな私の西向きの部屋は、赤い夕陽を浴びて、けだるい空虚に満たされていた。私の傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な生活無能者ぶりに、学校や近所から非難の声があがり始め、疲れと倦怠(けんたい)の中に言い知れぬ恐れが(きざ)した。絶望のニヒリズムを生きようとして、自分の内に閉じ(こも)って半年、私の孤独に狂気の影が忍び寄っていた。

当初の孤独の喜びは信じ(がた)い恐れに変わっていた。アパートの一室に(ひと)り閉じ(こも)った私には、世界中が私という一点を()つめ、私を知り()くし、私を断罪しようとしているように感じられた。心が恐れでトゲ()されるように痛かった。そして、ついに私は地の底から()き上がってくるような激しい恐怖の波動に襲われ、ブルブルと全身を(おのの)かせて、(さけ)()そうとしていた。

その時、私は激しい恐怖に()()ねて、神の前に自分を投げ出していた(キリスト教的には神を(しん)じないことが罪なのだ)。そして、私はそれまでの自分の(つみ)を認め、罪の許しを()うていた。そして、救われて、悔悟(かいご)者となっていた。私は自分を襲った恐怖と悔悛(かいしゅん)の嵐が過ぎ去ると、そそくさと下宿を引き払い、キルケゴールを(たずさ)えて、田舎の実家に(かえ)っていった。そしてただひたすら自分自身であろうとしながら、キルケゴールに没入(ぼつにゅう)していった。

私がキルケゴールによって知ったことは、自分が絶望(ぜつぼう)して自己自身であろうとしたこと、それが(つみ)であったこと、そして、それが至るであろう死への関わりによって、永遠(えいえん)的なものに回し向けられ、そこに身を(ゆだ)ねたところに(すく)いがあったことだった。

そして、私はそうやって得た信仰を命綱にして、(あらた)めて自分の底無しの存在の(ふか)みに降りていった。そうして私は信ずることによって、(あらた)めて自分自身であり切り、永遠と一体になるという恍惚(こうこつ)を経験した。