1998年5月9・10日(土・日) アムステルダム紀行

先日元エンジニアリング会社社員で弁理士のFさんから、「欧米では、桜を眺めて一杯、てなことはないのでしょうか」とのご照会を受けましたが、家族連れでのピクニックはよく目にしますしその際にはワインやビールを飲むことも多いようです。ただ日本と違って高歌放吟することはなく周囲に迷惑を掛けることが無い反面、山の歌を大声で歌っていた経験からするとあの開放感、カタルシスなしで欧米人はよく生きていけるものだと思ったりもします。

そういう私も欧米での生活が長くなり、慣れてしまったせいか日本文化の象徴でもあるカラオケには抵抗を感じるようになってしまいました。もっともそれも接待でのカラオケにうんざりしたせいで、山にでも行けば話は違うと思います。

また国家公務員(警察庁)のBさんからのイングリッシュ・ガーデニングに関するご質問ですが、私のフラットはあいにくとロンドン都心部で猫の額ほどの庭もありませんので正直よく分かりません。ただイギリス人の話を聞いていても時間をかけていることは確かで、どんな家にも自慢の庭(日本の庭と比べると公園並み-ちょっと言いすぎですか)があり、またロンドン市内の公園は春から夏にかけて色々な花が絶えることがありません。

そういえば、先日公園を散歩しながらつらつら考えたのですが、生活の質・豊かさでは日本はまだまだ欧米にはかなわないなと感じます。何年か前の国連の統計で、埋蔵資源、国土面積、教育レベル等のストックまで含めた国富(Gross National Wealth per capitaでしたか)の比較ではオーストラリア、カナダ等が上位でアメリカが5番目くらい日本は十数位だったかと記憶しています。

もちろん何でも交換可能な貨幣単位で比較しようというのは金融マンの驕りで、世界の大部分の国民が自由に居住国を変更できない中であまり意味の無いこととの批判はあります。2年ほど前に読んだポズナーの『正義の経済学』の主要テーマは富の最大化が社会正義で最大多数の最大幸福は誤りとの主張です。

幸福は個人的な価値で交換不可能なのに対し、富は何らかの手段で交換可能というのが違いです。比較値の絶対化には注意しないといけませんが、比較する姿勢とそれを相対的に利用することは重要と思います。

 
 
 
※本記事は、2021年8月刊行の書籍『ヨーロッパ歴史訪問記』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。