「小山内さん、大丈夫ですか。何で荷物をホテルに置いてきちゃったんですか」

話しかけても、何の反応もない。目を開けているが、瞳の焦点が合っていないような気がする。日航のスタッフが晝間に尋ねてきた。

「その方、空港内をふらふら歩いていらしたらしいのですが、JALのチケットをお持ちだったので、別便のお客様がこのオフィスまで連れてきてくれたのです。何を聞いても何もおっしゃらないですけど」

そして小山内に聞こえないような小声で、「あの方はご病気なのでしょうか」と日航のスタッフが聞いてきた。

「いえ、団体ツアーで来たんですけど、その団体のリーダーで、他のお客様は皆さん昨日帰国されました。お仕事のため一泊延ばされ、今日帰国されるんです」

「でも、ご様子が変ですよね」

「昨日も夜遅くまでお仕事されていたんで、相当疲れているんだと思います」

「ご搭乗されるのでしたら、カウンターで手続きしていただけますか。もしよろしければ、その後こちらでサテライトまでご案内致しますが」

「分かりました。それでは手続きを済ませて参ります」

あまり様子が異常だと搭乗拒否されるかもしれないと思い、あくまで仕事で疲れているということで通した。正嗣は小山内の手を取り、チェックインカウンターに並んだ。何を話しかけても、小山内からは何の言葉も返ってこない。精神的におかしくなってしまったのだろうかと正嗣は思ったが、今は早く小山内に帰国してもらいたいというのが正直な気持ちだった。

小山内の順番が来て、パスポートとチケットをカウンターに出し、スーツケースを預ける。手続きをするスタッフの質問には全て正嗣が答えたため、怪訝(けげん)な顔をされたがボーディングパスをもらえた。その後、日航のオフィスにもどり、若い日本人女性のグランドスタッフに搭乗機までの案内をお願いする。

グランドスタッフは小山内と正嗣を出国手続きの制限エリア手前まで案内すると、正嗣に言った。

「この先はご搭乗のお客様しか入れませんので、しばらくここでお待ち頂けないでしょうか」

「飛行機に乗せていただけるのですね」

「他のお客様の迷惑にならなければ、ご搭乗いただけます」

「分かりました。よろしくお願い致します」

正嗣が制限エリアに入っていく小山内の後ろ姿を見送り、「搭乗できますように」と祈った。正嗣はこの時にはもう「小山内さんは精神的にどこかおかしくなっている」と確信していた。だから、もう彼の面倒から離れたかったので、神にも祈る気持ちになったのだ。

※本記事は、2021年6月刊行の書籍『サンパギータの残り香』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。