会津いじめ

会津藩については、そのために尽力してくれるような人脈はなかった。2月の段階で、会津藩家老の名で有力22藩に朝廷への執成しを嘆願したが、1藩もこれに応じてくれなかった。

一方で会津藩に対して強い恨みを抱く者はいた。

幕末の京都における攘夷を巡る政争の中で、京都守護職の会津藩主松平容保は職掌上幕府側の前面に立ち、攘夷急進派の公卿や長州藩と対決した。池田屋事件などでは彼らを斬殺、8月18日の政変では彼らを京都から追い出し、禁門の変では彼らを朝敵とし、さらには彼らを朝敵として追討するに当たって主導的役割を果たした。追討戦を避けるため、長州藩は3人の家老を切腹させ、4人の参謀を斬罪に処さなければならなかった。

勝との会談後、西郷が降伏の条件を持って京に着き、それを巡って朝議があり、慶喜の罪一等を減じることや、江戸城の無血開城を決めた時、「その後をどうする」、「会津をどうする」ということは、当然論議され、何らかの決定があった筈であるが、それに関して書かれたものは残念ながら目にしたことがない。

いよいよ江戸城総攻撃と敵愾心の高まっている時にそれをはぐらかされた3道の総督軍のガス抜きのためには、会津藩ぐらいは彼らの目の前に投げ与えてやらねば収まるまいということであったのかもしれない。その時薩摩の者が「俺たちにも庄内藩をよこせ」とでも言ったのだろうか。

他方で、会津藩側が頑なに過ぎたということは、なかったのだろうか。こちらも、藩内でどのような論議がなされていたのか、不明である。なお、『復古記』には次のような記述も見られる。

「4月25日督府、松平容保ノ罪一等ヲ宥メ、命シテ罪ヲ謝シ、降ヲ乞ハシム、尋テ容保上書シテ、徳川氏ノ処分未タ定ラサルヲ以テ、其命ニ応スルコト能ハサルヲ申ス

閏4月3日是日、督府仙台米沢二藩ニ令スルニ、容保降ヲ乞ント欲セハ、宜シク白河口軍門ニ就テ之ヲ請フヘキヲ以テシ……

閏4月23日大総督府、書ヲ奥羽鎮撫総督府ニ致シテ、江戸地方鎮定ニ就クヲ報シ、且松平容保、若シ真ニ罪ニ伏セハ、宜シク其城地及ヒ兵器ヲ収メ、容保父子ヲシテ城外ニ謹慎シ、以テ朝裁ヲ待タシムヘキヲ告ク」