西郷と勝との会談があった頃、東海道総督軍の参謀が横浜にイギリス公使パークスを訪ねていた。江戸での戦闘で多数の傷病者が出るであろう、その手当に力を貸してほしいと頼みに行ったとされる。ところが公使はなかなか現れず、現れると、「慶喜追討戦について新政府側から外交団になんの説明もなく、居留民を保護する措置も全く取られていない」と参謀を詰った。そしてパークスは、「恭順の態度を示しているものを討つのは万国公法に反する」と言い残し、参謀を置いて、ドアを閉めて出て行ってしまった。

このことは、直ちに西郷に知らされた。西郷は報告を聞くと一瞬困った表情を見せたが、すぐに「これは、かえって好都合だ」と言ったという。

この時点では、西郷はすでに江戸城の無血開城を心に決めていたであろう。ただ、朝廷の強硬派をどう説得するか、また戦闘心の極限に達している3道の軍をどう鎮めるか、頭を痛めていたものと思われる。現に板垣は血相を変えて飛び込んで来た。

西郷は板垣にパークスの話をしたであろう。そして板垣はおとなしく帰って行ったのであろう。

この日を去ること20日ほど前、2月23日、泉州堺の妙国寺で土佐藩士11人がフランス軍艦の艦長の立会いのもとで切腹した。

その8日前、2月15日、堺港で、港を警備していた土佐藩兵がフランス軍艦の水兵を銃撃、フランス水兵11人が死ぬということがあった。フランス側からの激しい抗議があり、生まれたばかりの新政府は狼狽して、フランス側死者の数の倍近い20人の土佐藩士を切腹させると約束、この日となったものである。しかしあまりの凄絶さに、11人の切腹が終わった時点でフランス側から中止の要請があった。

その前の1月11日には、開かれたばかりの神戸の外国人居留地で岡山藩兵とイギリス人などとの間で撃合いがあり、この時は死者は出なかったが、イギリス公使パークスなどからの抗議を受け、岡山藩士一人が2月9日に切腹させられていた。

板垣は土佐藩の幹部として、当然この堺事件や神戸事件のことは報告を受けていたであろう。

江戸市民は、江戸が戦火を被らなかったことについて、勝や西郷に感謝するより、堺事件や神戸事件で切腹した12人に感謝すべきかもしれない。そして江戸に代わって人身御供に供された会津藩に対しても、である。神戸事件と堺事件とについては、第3部で改めて触れる。