学童疎開はひもじい毎日

辺りは森林に囲まれた山奥の田舎で、都会では聞けない野鳥のさえずりが聞こえてきた。長い石段を登って到着した西臨寺は前庭が広くて太い柱の並んだ古いお寺だった。

生徒たちが、その日から生活するのは本堂の屋根の下の大きい座敷で、三年生の男子十五名ばかりと六年生の女子十名ばかりが合宿する所だった。

仲良しだった耳鼻咽喉科医院の息子と中国新聞の記者の息子は集団疎開には参加していなくてMは寂しかった。

その日の夕食は湯気を立てながら運ばれてきた。生徒たちが持ってきた弁当の残りをかき集め、せいろで蒸して夕食にしたものだった。

並べられた数卓の長い座机の上に配られ、生徒たちは奇声を発しながら食べ始めた。おいしかった。Mは夢中で食べた。

それ以来、その味は忘れられないものとなってMの記憶の底に残っている。悔しいけれど、それが学童疎開中、最初で最後のご馳走となった。

第一日目の夜から、大広間が宿泊所となり、六年生の女子と三年生の男子が半分ずつにされ、それぞれ親から送られてきていた布団を部屋いっぱいに敷きつめて寝た。

一口三十回噛んで食べる

翌日の朝食からは量も内容も酷いもので、食事といえる代物ではなかった。饑餓地獄の始まりだった。

親は食べないでも子には食べさせ、大切に育てられてきた育ち盛りの子供たちにとっては耐え難い食事だった。小さい茶碗に八分目に盛り分けられた中身は大豆と米粒で、あとは薄い味噌汁だけだった。

初めての朝食を前にして皆が箸をとる前に男の先生が立ち上がり、

「お早うございます」に続いて次のように喋った。

「よく噛めば噛むほど栄養がとれ元気がでるので、一口で三十回ずつ噛んで食べましょう」と、前置きをして箸をとり「頂きまーす」と一口めを一斉に口に運んだ。続いて「一、二、三、四……」と号令をかけ生徒たち全員が、声を合わせて噛みながら食事が始まった。

だが、米粒のなかには(もみ)のついたものがいっぱい混じっていて、噛み切れないまま残りを口から出して、一つずつ机の上に並べると三十センチにもおよんだ。

昼食は(ぬか)(よもぎ)を固めた小さい団子が二つしかなかった。その後も朝、昼、夜の三食とも大差はなく粗末なものが少量しか与えられなかった。間食は一切なく日毎に生徒たち全員に飢えが浸透していった。