そしてバルカン半島を制圧したのちは破竹の海軍力でもって、黒海、エーゲ海をわが内海とし、アラビア半島西岸、アフリカ大陸北岸を勢力図として三大陸に跨る最大勢力範囲を完成させ、スレイマン一世の時に最盛期を迎えた。ことにスレイマン治世の一五二九年の第一次、一六八三年の第二次の、二度のウィーン攻略戦はオスマン帝国の命運を左右した天王山とも言うべき戦いで、ハプスブルク王朝はよくこの大難を乗り切りウィーンを守り切った。

これを機にオーストリア、ロシア、ハンガリー等ヨーロッパ諸国神聖同盟のオスマントルコへの反撃が口火を切った。

誠にこのウィーン攻略こそは、ヨーロッパの命運を握る一大決戦であったし、仮にもしこれが落ちていたならば、オスマントルコ帝国のヨーロッパ制圧はイスラム化とともに現実のものとなっていたろう。

ウィーン攻略と前後して十六世紀から二十世紀までに実に十二度も頻繁に行われたのが、ロシアとトルコの戦争である。お互い勝ったり負けたりのくり返しながら確実に、トルコの衰退とロシアの拡張を現実化させ、ヨーロッパキリスト教社会の全地球的拡張を決定づけた。ここまでが現実の歴史だった。

ここまで語ってきた私に、モンゴルとゲルマンの第二次ともいうべき決戦の(ささや)きが聞こえだした。映画の世界でもって。

モンゴルのバツがジュチ・ウルス(ジュチの土地)またはキプチャク汗国を東ヨーロッパ間近に建国したことは先に述べた。初代ハーンのバツはジンギスカンの長子ジュチの次男であり、その気位は大ハーンのオゴデイを凌ぎ、モンゴル帝国首都カラコルムへは帰還しなかった。クリルタイ(モンゴルの最高会議)で三代目大ハーンにオゴデイの長男ギュクが(すい)(たい)されることを見抜いていたのだ。それよりもバツは一度は御破算になった欧州征圧に執念をたぎらせていた。キプチャクというトルコの一民族の名で知られるこの王朝は実質的に「バツ汗国」であった。カスピ海北岸の首都サライは煌びやかな天幕、天帳に覆われていた。欧州のいかなる首都もその煌びやかさには劣ったといわれる。

そして、バツの曾孫の代のテムルカーンはウルス内の戦闘員を約三十万招集して西進の号令を下さんとしていた。十七世紀の端緒に入ったころである。テムルカーンはアストラハンで太守に任ぜられていたオロスを第一次西進部隊の領袖につけた。モスクワ大公国等のルーシ人民も競うようその指揮下に入りだした。その数およそ七十万。同じ頃、モンゴル帝国は大元皇帝が新興の明に追い立てられるようにして北方に下がって以来大ハーンの空席を招いていたが、北元のハーンのもとに俄かに大軍が集まりだした、その数約五十万。

その大部分が小銃火器を装備していた。それは当時もっとも進化していた「種子島」と呼ばれる小銃だった。

それらの総指揮を取るのが誰あろう、あの本能寺で滅ぼされた織田信長の長子、織田(のぶ)(ただ)なのだ。信忠は本能寺の変の後、すかさず安土城に移り、ここより明智光秀への反撃でこれを誅殺した。その後日本を平定した後、彼は、大船団を組織して朝鮮を経由せず直接明国遠征を果たし、そこの支配者となっていたのだ。

それら五十万の軍勢がタシケントに集結を始めたころ、軌を一にしてトルクメニスタンにも軍勢が集まりだしていた。それらの多くはティムール帝国とイル汗国の残滓(ざんし)でほとんどがムスリムだった。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『マルト神群』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。