第二章 千年の暁

百九十万のアジアの大軍が全欧州を制圧しようとしていた。

記録によれば。全欧州は三度アジア人に征服されようとしたことがある。まず紀元五世紀のフン族とその首領アッティラのヨーロッパ侵攻があげられる。すんでのところでその侵攻は食い止められ、アッティラの死によってフン帝国は瓦解してヨーロッパは救われた。

その次が十三世紀のモンゴル帝国の侵入である。

猛将バツ率いるモンゴル軍十五万はルーシ(古代ロシア人)の立ち上げたキエフ大公国、モスクワ公国の全土を馬蹄(ばてい)にかけて蹂躙(じゅうりん)し、ポーランド西部のリーグニッツにおいてドイツ・ポーランド連合軍と激突した。一二四一年四月九日のことである。結果はモンゴル軍の圧勝であった。このリーグニッツでのあまりに(むご)い敗戦はその後のヨーロッパ歴史学者の多くが、その戦闘をなかったことにしようとしたことでも、また、このリーグニッツの地名を、ワールシュタット(ドイツ語で「戦場」)としようとしたことでもその衝撃の大きさが偲ばれる。

モンゴルのヨーロッパ制圧は時間の問題と思われたが、遠いモンゴル帝国の首都カラコルムでの太宗オゴデイの死去により、ヨーロッパ遠征軍は故国に引き返しだした。ヨーロッパはまたしても危機を脱したのである。バツはカスピ海、黒海北岸域にジュチ・ウルス(キプチャク汗国)を建て、ヨーロッパに(にら)みを利かせた。

モンゴルとゲルマン、アジアとヨーロッパの二大民族の激突は、その後二度と再現されることはないと思われた。

しかり、その後大航海時代を経てアジア、アフリカ、オセアニア、北米、中南米に植民地獲得の触手を伸ばしだした欧州に対するそれらの世界の反抗は微々たるものだった。欧州の科学力をはじめとするあまりに圧倒的な力は、植民地獲得の先兵としてのキリスト教の布教とともに、地球上の大半を覆い尽くそうとしだした。

さて、三度目のアジア人による欧州制圧の危機は、十五世紀から十六世紀にかけてのオスマン帝国の侵攻に始まる。東ローマ帝国を滅亡に追い込み、首都コンスタンティノープルをイスタンブールと改名し、ここをオスマン帝国の新首都とした。