恭子が亡くなって初めて来栖は彼女と過ごした時間が貴重だったと気づいた。それと同時に彼は彼女と共有した時間を区分し、相互に比較する形でその意味を受けとめていた。

まず前戯や性交そのものに費やした時間に、事後の安らぎを含めた時間の合算、そしてもう一つは直接セックスとは関係のない時間の総体である。互いに対面の形で横臥して、わき腹あたりから足の先まで肌が触れあったままでベッドでじっとしていた時間のほうがはるかに長く、その時の感触のほうがなつかしく鮮明に蘇ってくる。

これに対し性交時にどのような快感を得たかなど、記憶に残っているところがむしろ乏しいというのが正直なところだ。恭子は彼と肌を合わせそのままの状態でいることを好んだ。それに続いて性交に至る道筋をたどるということもないままに終わることもあった。二人ともに性交為そのものを端折ってしまうこともある。

そのような場合でも、満ち足りた思いで恭子と共に仲良く並び、横臥したままの状態が多かった。このような時間の過ごし方とは異なり、セックスを心ゆくまで愉しむという恭子の姿を見るほうがはるかに少なかった。

勿論数少ないながらもそのような機会に巡りあうと、彼女はセックスの行為そのものに全身全霊で没入しているようにみえた。終わった後にはほんわりと満ち足りた表情を浮かべている。そのような時、来栖のほうはというと、恭子の勢いに呑まれて同じ充足感を持てることもあるし、なんとなく欲求不満の態で終ることもある。

自身で物足りなかったなと思ってしまう時には最大のオルガスムスを味わうのだという意欲を漲らせないままに、奉仕のエネルギーで充ち溢れて相手に快楽を最大限に与える努力をしなかったと自身を責める気持ちになる。

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『ミレニアムの黄昏』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。