会津いじめ

それにしても、会津人に恨みを抱かせた「会津いじめ」としか見えない会津藩への執念深い攻撃は、なぜ、また誰の主導で仕掛けられたのであろうか。会津人の恨みの対象は、討伐戦そのものだけに止まらなかった。

戦時中、新政府軍により「分捕り」と称する民間資産の略奪や婦女子への暴行が多発したという。戦後、新政府側は、市中に散乱する会津藩兵士の遺骸の埋葬を長いこと許さず、遺骸を野犬や野鳥の食い荒らすに任せたという。

戦後の処分では、会津藩は、「一藩配流」と言われる極寒、不毛の地への転封を命じられ斗南藩となった。幸いほどなく廃藩置県があり、全国の旧藩主は東京居住を命じられ、これに伴って旧藩士も旧藩を離れることができるようにはなったが。

さらに、これは会津だけでなく列藩同盟加盟地域全般で、自分たちは中央から差別的扱いを受けているという不満や屈辱感が長く生き続けた。全国の小学校では、新政府軍は「官軍」、同盟軍は「賊軍」であり、正義の官軍が賊軍を討ち果たした、と長いこと教え続けられた。

後年、西南戦争が起こった時、旧会津藩士たちは、戊辰戦争の恨みを晴らさんと、大挙して打倒西郷に馳せ参じた。会津いじめの張本人たちは西郷側ではなく、時の政府の方にこそいたと思われるので、打倒西郷というのは見当違いに思われるが。