早起きになって、淳が朝食に呼ぶまで、朝日の中でデッサンを仕上げる。手が素晴らしく早い。物がよく見えるようになったと言う。自分の弱点もよくわかるそうだ。訓練が足りない。ある時は、僕も恰好つけなくてよくなったのかなと言う。本当(ほんと)に素直で可愛い。夜中、目が覚めたら、可笑しそうに覗き込んでいて

(いびき)? 寝言? おなら?」

「違うよ。あなたの肖像画のこと……思い出した……僕の幼稚さ……だけど……一生懸命で……有頂天で……きっとあなたの……いい絵を描く、いつか」

寒い間、雪や氷雨の日は車で訪問に付き合ってやると言う。親切のつもりはわかるけれど、それが仕事なの、十何年やってきたの、台風が直撃した時も傘飛ばされてずぶ濡れで、歩道に倒れた桜を跨ぎ越して濁流の橋を渡っていたり、凍った雪の路面で()けつ(まろ)びつ暖房入れに訪問していたり。バスもタクシーも止まるから。

「……そういう……それが仕事なの。あの雨の日も」

「僕を心配させて仕事に尽くすんだ」

「心配しなくていいの。護られている。間違ったことをしても失敗しても、やり直しさせてくれる」

「……神様?」

「違うと思う……わからない……でも護られていると思う」

「一人でも困らなかったね」

「思い返せば、そうかもね」

工房から木の切れっ端を持って帰って、枠を作って、カンバスを張る。大きい。F五〇号だそうだ。必要最小限で決める。鉛筆を大量に。一〇Bとか五Hとか。練り消しなんかも。画帳の沢山の下絵を写し始める。集中すると精悍だ。視ている淳に気が付くと優しい貌になって

「見守られている。僕も大丈夫だ」

夕食後の時間、居間で凭れあっている時、もう独りで夜中の街を放っつき歩くような貌をしない。黙って幸福に漂う。八汐は腕前を上げて! 淳さんを描ける日を思う。

淳はアトリエを増築するつもりでいる。八汐は、描き始めた絵が上手くいったら、子供を作ろうと思うが、まだ言い出せない。いい父親になりたい。淳は高齢出産のリスクがわかっているから一日一日が重いのだが、八汐の気持ちを乱したくない。八汐は室町と重信に会わせてもらいたいが、絵が上手くいくこと、子供を作る決心が先だと思う。

淳は父と重信に八汐くんを好青年だと言わせたいが、生方に接近しそうで二の足を踏む。八汐は自分の秘密がなくなってしまったから、淳が父親に紹介してくれようとしないことは寂しい。淳は生方に返信せずにいることを気に病んでいる。皆に不実を働いているように思う。恋文はどうなったのだろう。室町の家に溜まっているのだろうか。もう書いてくれなくなったのだろうか。生方はどうしているだろうか。

桜が咲いたら夜桜見に行こう、と八汐が言う。

それは楽しみ!

八汐のセックスはいよいよ懇ろになる。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『フィレンツェの指輪』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。