晴元支持を唱えていた足利義晴公はそう宣って、新たに十三代将軍となった義輝公とともに再起を誓い、親子して京を出て、近江坂本へと退散した。

伊丹親興は居城の伊丹城に帰還したが、長慶勢に城を囲まれ籠城。翌天文十九年三月まで持ち堪えるが、遊佐長教の仲立ちにより和睦することになる。

こうして細川晴元政権は崩壊し、替わって細川氏綱様を奉じた長慶様が入京した。

「三好筑前守に摂津国の守護職を命ずる」

「謹んでお請けいたします」

長慶様は空になった将軍邸で、氏綱様をして摂津守護職に任ぜられ、いよいよ国持の守護大名となられた。

また、和泉半国守護の細川晴賢と細川元常も将軍に同道して近江へ逃れたため、和泉国も長慶様の支配するところとなった。

「殿、いや、守護職に任ぜられたによって『御屋形様』とお呼びせねばなりますまいか。摂津守護職への就任、まことにおめでとうございます」

京の三好邸に戻った長慶様に、儂はお祝いの言葉を述べた。

「此度は弟たちに助けられた」

安宅冬康はその水軍力を充分に発揮し、十河一存は此度の戦で〈鬼十河〉の異名を益々高めた。

長慶様は、冬康と一存の独断による江口攻めについて、特に叱責することもなく不問に付し、逆に感謝しているご様子であった。

「御父上様の仇の一人を葬り去りましたな」と、儂は付け加えてみたが、長慶様は少し苦笑しただけで、特にお言葉は返って来なかった。

何はともあれ、長慶様の願う〈民草が安寧に暮らせる世〉へ一歩近づいたと儂は喜んだ。

奉行人の一人であった儂は、この時から三好家の〈内者〉という立場となり、より一層長慶様の御側近くにお仕えるようになった。また、此度の戦いの働きにより、宗三が所有していた付藻茄子という天下に知られた名物の茶入を褒美として賜った。〈付藻茄子〉とは、『九十九髪茄子』とも書く唐物の茄子茶入である。この茶入には石間(部分的に釉薬がかからず、土の部分が見えたようになっている部分)があり、それが唯一の欠点とされ、昔、『伊勢物語』の一節に「百年に一年足らぬつくもがみ我を恋ふらし面影に見ゆ」と詠まれたのにちなんで名付けられたという。

もともと茶の湯に興味のあった儂にとっては有り難い褒美であった。

弟の甚介は、その軍功により幕府料所であった山科七郷を与えられたのに加え、天龍寺領長井荘の下司職にも任ぜられ、領地持ちの歴とした三好家の部将となった。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『 松永久秀~天下兵乱記~』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。