無論、私はそんな生き方――自己自身(無力もしくは絶望)であり切ること(死への関わり)によって、永遠的なもの(共同的なもの)へと回し向けられていくという生き方(信仰もしくは実存)――をTと共有することができなかった。

議論好きの彼は、何度となく神について私に問い掛けたが、私は答えることができなかった。そして、彼は死に、私はまた独り生き残って、ここに佇んでいる。彼もまた虚しさと寂しさを残して、私の傍らを通り過ぎていったのだ。

――惜しむらくは、Tは神という言葉に(つまづ)いて、孤独を自分の絶対的な力と見做し、自分の無力(絶望)に至るものと見做すことができなかった。そして、彼の孤独はくずおれて、砕け、彼は飲んだのだ。

惜しむらくは、彼が孤独を無力(絶望)に至るものとして認めていたならば、その死への関わりによって、孤独を永遠的なもの(共同的なもの)へと回まわし向けられていく行為(信仰もしくは実存)として経験したであろう。

思うに、私はアル中にならなければ、現代の社会に生きてこられなかった。そして、自分の無力(絶望)を認めることがなければ、それから回復することもなかった。無力であること(悲しむこと)がなければ、人間は不可解である。

無力であることを認めることの中に(死を受け入れてなおも生きようとすることの中なかに)、そして、それを共有して生きようとすることの中に、人間の真実が秘められている、と思う。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『 追憶 ~あるアル中患者の手記~』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。