大学都市・ハイデルベルク

城を見物してから街へ出た。大学都市だそうだが、そんな荘重さはなくて、明るい街である。家々のベランダは花で満艦飾である。

ここの大学はマックス・ウェーバーを生み、その影響を受けた哲学者カール・ヤスパースを生んだ。一九三七年夏、ナチスの手はヤスパースにも迫り、ハイデルベルク大学の教授職を罷免されることになる。理由は、妻がユダヤ人だったからである。この緊迫した状況での彼の日記は痛ましく、かつ彼自身の品性の高さに満ちている。恐怖に震えながら自殺を考え、内なる解脱の声を待ち望み、なお哲学的真理に触れることを望んでいるのである。

彼の唱える真理とは何か。部分である人間が全体である世界を理解しようがない。必要なのは、自分の可能性に向けて人間らしく「生きる」ことである。そして生き方を真剣に極限状況(この言葉は第二次世界大戦後、日本でも流行した)ギリギリまで追い詰めて解脱する。まるで大乗仏教的な精神をヨーロッパの言語で哲学的に述べている。

彼が追い込まれた状況は蓮如上人の「人間のはかなき事は老少不定のさかひ」であり、苦しんだあげくの境地は禅語で言えば、「應無所住而生其心」というふうに訳せると私は思う。一九四五年、夫妻の収容所送りが決定された。だが、その予定日の約二週間前に米軍がハイデルベルクを占領し、ヤスパース夫妻は危機を逃れることができたのだった(白取春彦『この一冊で「哲学」がわかる!』、玄侑宗久『禅的生活』等)。

朝は小雨模様だったが昼食を摂っているうちに日がさしてきて明るくなった。カール・テオドール橋やマルクト広場を見てから聖霊教会に入ると、右手入口側の真っ赤なステンドグラスに目をひきつけられた。

読み慣れていない花文字の中に、E=mc2というアインシュタインの相対性原理の有名な公式があり、最下段に「6・8・1945」という広島原爆の日付が記してあり印象に残ったが、この街へ来る道中にガイドの崎山嬢が、アインシュタインを輩出したハイデルベルクの謝罪のモニュメントと言っていたのはこれかと思った。

この大学都市は宗教的な敬虔さを持っていると感じ、日本人とのご縁も深いと知って感動した。