帰宅したのに『こまち』の事務所に来てキスしないで、デスクワークに区切りをつけて台所に立ったらそうっと寄ってきて、メニューも訊かず流し台に出したじゃがいもを剥き始める。玉葱を剥く。

「ハンバーグ」

素直に手伝って可愛い。

「淳さんは人を素直にする人だね」

え、と思う。顔を見上げると瞼を泣き腫らしている。

気付かれただけでもういけない。涙が零れる。包丁を置いて手を洗って、手拭きを握って上から縋りつく。啜り上げる。本当に母性に甘えられているだけ? 泣き止まないから、濡れたまま背に廻した手で撫でながら

「ハンバーグ、食べるでしょ?」

うん、と返事する。

「じゃあ一人で作るから、八汐くんは一人で泣き止みなさい」

離れて、手拭きで顔を拭いて洟をかんで、椅子に腰を下ろして食卓に突っ伏す。横目で視ながら調理する。火を使い始めると気が抜けない。香りが満ちる。一日の充足を感じる。

「チーズ載せる?」

八汐は伏せた顔を横向けて、濡れた瞼を上げて、うん、と言う。幸せそうに。

ご飯はレンジに入れるだけ。スープはコンソメ。その間にワインをちょっと。

八汐は淳の倍以上食べる。ハンバーグは特大の一個。たっぷりチーズが溶けている。サラダ菜とトマトと人参とアスパラもたっぷり。特別にアボカドとパイナップル。時々は何もなくて大根サラダだったりもやしのおひたしってこともある。もっとひどい時は総菜を買ってくる。それを嫌がることはないが、手作りの時の食べっぷりがいい。旨い、だの、美味しいだの呟きながら。淳のふだんが八汐には幸せなのである。

ワインを持って居間に移っても、八汐は両腕を横から淳の肩に廻して黙って髪に頬擦りしている。淳さん、と囁く。

「今日はお母さんと呼ばれそう」

「うん。淳母さん」

「そしたらあなたを子供部屋に寝かせなきゃ」

「寝付くまでいっしょにいてくれなくちゃ」

テレビも映画も観ずにそうしていた。心地よかった。

室町と重信という理想の男…… 理想……って……

「アパートで…… 暮らした子…… 二児の母親だった……」

虹の、二次の、二時の……二児の、ああ、そうか。鈍い衝撃を腹に感じた。

「結婚していた…… みんな……幸せそうだった…… 僕の子も……」

ああ、そうか。また鈍痛。

「僕の子じゃなくなっていた…… 僕よりずっといい父親だった……」

静かな温かい呼吸が額にかかる。何を、八汐はそんなにも泣いたのか……

俺に似た子がいる。俺を一生知ることなく。

八汐が眠る。夜毎の少々がむしゃらなセックスもなしに、淳の腕を胸に抱いてすやすやと。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『フィレンツェの指輪』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。