Mは広島一中のそばで誕生

Mが、この世に誕生したのは、一九三七(昭和十二)年二月十六日で、広島市の真ん中にあった小町の四十七番地である。もう随分昔のことになる。朧な記憶をたどると、確か隣に有田帽子店があり、道を隔てて広島一中の校門があって入り口はわずかばかり坂になった石畳だった。そこで近所の二、三歳くらいの幼い子たちと三輪車を転がして遊んだような思い出がある。

そのまま小町にいたら、きっと、すぐ近くにあった袋町国民学校に通っていて、間違いなく原爆で死んでいたはずだ。熱線で焼かれた幼い遺体は溶けて骨さえも残らなかっただろう。今も被爆した教室の一部が遺されていて見に行ったことはあるが、悲しくて悔しくて目を覆いたくなった。

[図表]広島市内図

母の故郷は江州(近江の里)

Mの母の千代の郷里は広島ではなく、滋賀県にある琵琶湖畔にそびえる彦根城の近くで、男三人女二人のきょうだいで、母は、その最初に生まれた長女だった。

生家は「車屋」と呼ばれ、庭のすぐ側を流れる小川を利用して動く大きな木で作られた水車が置かれていた。精米に使われたらしい。家の門柱の古びた木の表札には『二木次郎右衛門』と刻まれている。千代の実家は農家だった。

Mが幼い頃、二度ばかり家族で母の郷里を訪ね、祖父母や叔父一家と会った記憶がある。祖母はとても喜んで「Mちゃん、いこうなりやったなあ」と迎えてくれた。祖母が、みんなを呼んで縁側に座らせて、井戸に吊して冷やしておいた大きな西瓜を取り出してきて、包丁で割ってご馳走してくれた。冷たくてとてもおいしかった。

琵琶湖へ泳ぎに行ったときのことも、いまだに覚えている。帰ってくると歓待の夕食には、すき焼きが用意されていた。首を切られた鶏が逆さ吊りにされ、滴る血が受け取られていた。鶏の肉と血の入った大鍋からおいしそうな匂いが立ち込めてきた。みんなで食卓を囲み夕食が始まったが、吊されて抜かれた血と肉が材料だと知った幼いMは気味が悪くなり、一口も食べる気がしなかった。