俗にいう相性が良いというのだろうか、恭子と交わるときにはどういうわけか肉体的にも精神的にも不調な時があったにもかかわらず、性交そのものはほとんどスムーズに事が運んだ。

恭子を相手にした時には不思議にうまくいく。単に美術館めぐりを共にするだけでなく、それに続いて二人だけの時間を持ちたいと思った時など、普通は夫婦という名目で安上がりのビジネスホテルを利用することが多かったのだが、時たま和風旅館に宿泊することもあった。

部屋に通された後、すぐに二人は愛し合いたい気持ちになることもある。恭子のほうが積極的な時には、布団やベッドではなく畳の上でじかに抱き合い、飲み物やお膳を運んでくるなど何らかの用向きでやって来た仲居の声もノックの音にも、二人共に気づかないようなこともあった。

ドアの内側に控えの間やスリッパを脱ぐだけの板間など何もなく、いきなり部屋が見渡せてしまうような安普請の旅館では、二人共に恥ずかしい姿を他人にさらしてしまうこともある。

そのような時の恭子は自身の裸身をさらけ出して、来栖と絡み合っている姿の一部を見ず知らずの他人に見られるということにもそれほど恥ずかしいといった風情を見せなかった。

それどころか実際にはそこまでのシーンには至らなかったが、彼女には性交そのものをも、他者に見せてしまう、あるいは一歩進んで見せつけてしまうというようなことも辞さないといった勢いがあった。

恭子が亡くなって今や二年半も経ち、彼女の存在感も次第に薄れていくのだが、当時の恭子に淫らとか醜悪といった形容ではなく、むしろ自己の欲求に忠実な潔さ、小気味良さといったものを一貫して感じ取ってきたなという思いに浸ってしまう。

これまで優柔不断にしか生きてこなかったと思っていたので、来栖は彼女の率直、即断のふるまいを見習いたいほどだった。

人間の性的欲求は精神的な状態や心的様態のあり方で変わってしまうということは大いにあり得る。来栖自身も精神が萎えていると、相手の欲求があった場合など、いくら努力しても肉体のほうが全く機能しなかった。

正直に自身の性生活を振り返ってみて、心にわだかまりを持っていたり、気苦労の多い日々を過ごしていると自覚するような時には、ほとんどの場合不能だった。

このことから判断するとノーマルとかアブノーマルというような基準は精神や肉体のあり方では元来たてられないものなのかもしれない。恭子の場合はそれが往々にして極端から極端へいくにすぎなかったのだ。

セックスによる体の充足感ということでの恭子の特徴は、言葉で表すとこれまでの説明で事足れりとなるのだが、来栖にはどうしてもこれで彼女の精神と肉体を客観的に説明できたと思えないところもあった。

彼女の場合、単純にいって本当に得たいものはセックスの快楽ではなく、それ以上に何か別のものを求めているのではないかと、彼自身の体がそのように受けとめることがあったからである。