壱─嘉靖十年、漁覇翁(イーバーウェン)のもとに投じ、初めて曹洛瑩(ツァオルオイン)にまみえるの事

(2)

「はい」

「いまは、われらにとっては、受難の時代じゃからのう。先代の、正徳帝(しょうとくてい)のころは、紫禁城の内外は、宦官であふれかえっていた。

城門を出ても、右も宦官なら、左も宦官、それでもなお、宦官になりたいという若者が、大陸中からわんさと押し寄せた。執刀医の門前には、宦官志望者の、長蛇の列ができたもんじゃ。

それだのに、嘉靖帝(かせいてい)が即位なされてからは、まったく変わってしまった。路銀をはたいて京師(みやこ)にやって来ても、宦官志望とわかれば、問答無用で追い返された。

宮中につとめていても、あらぬ理由をつけられ、とつぜん解雇されることさえあった。筒子河(トンツホ)に身投げする者も、あとを絶たなかった。ワシも、ずいぶん、屍体を引き上げたものじゃ」

「屍体……」

「ああ、あのにおいは、きついぞ。服をあらっても、しばらくはとれん」

「どうして、そうなってしまったんですか?」

「八虎(はっこ)とよばれた、八人の太監(たいかん)がいてな。正徳帝(しょうとくてい)が政務をかえりみず、どっぷり放蕩につかっておられるのをいいことに、この八虎が、悪さをしすぎたのじゃ。

誰かれかまわず賄賂(わいろ)をとった。裁判は賄賂の額で、勝ち負けがきめられたし、辺境守護の将軍など、ひどいもんじゃ。戦いにやぶれても、大枚の銀をさし出せば、なかったことにされたばかりか、かえって昇進したらしいでな。八虎は、自分たちに弓を引こうとする者がいれば、東廠の密偵を放って、暗殺もした」

老魏(ラオウェイ)は、声をおとして、ささやくように言った。

「……先代の没後、即位まもない嘉靖帝(かせいてい)が、最初になされたのが、宦官の粛正じゃった。政治を乱した者は、処罰せねば、秩序は保てんからのう。

いまの万歳爺(ワンスイイエ)は、宦官がお嫌いなんじゃろう。そりゃ、皇上からしてみれば、とうぜんかもしれんがのう。むかしはよかった。

むかしは、宦官も、夢と、誇りをもてた……永楽帝(えいらくてい)の時代には、鄭和(チェンホー)様のように、大船団をひき連れて、明の国威を海外に知らしめるようなお人も出た。そなたも、そんな時代に生まれればよかったのにのう」

「はい……」

「人生はまことに千差万別、そこには、生まれた時代も、大きく影響するもんじゃ。世間が内側にちぢこまるような時代に、外にむかって雄飛することは、むずかしい。

だがな、世がうつり変わっても、人は、その日一日が無事に過ごせれば、仕合せを感じられるものじゃ。そして、たまに、うまいものが食えれば、もう、それで言うことはない。おお、来たぞ、来たぞ」

料理がはこばれて来た。羊の肉に香草と塩をすりこんで、あぶり焼きにした烤羊肉(カオヤンロウ)、そして餃子。

「ここの餃子はうまいぞ」

老魏(ラオウェイ)は、酢醤油に辣油(ラーユ)をたしながら、すすめた。私にとって忘れられない、いちばんの美味は、子供のころ、母がつくってくれた餃子であった。

なつかしさが口の中でほどける。

「おいしいです。大哥(ターコウ)と老魏(ラオウェイ)に、感謝いたします」 

老魏(ラオウェイ)は、そうか、そうか、好(ハオ)、好(ハオ)、とうなずきながら、相好をくずした。

「そなたには、可愛げがあるのう」

意外な言葉であった。自分は、人づきあいもわるく、あまり愛想をふりまいたりもしないので、愛想などとは無縁だ、と思っていたからである。

「人には、可愛げがなければならん。ない者は出世せんしのう。たとえ、九五の高位にのぼったとしても、得た位が、その人にふさわしくないがゆえに、直後、天命が尽きてしまうこともある。

かりに余命があっても、他の者に、その座を逐(お)われてしまうこともある。叙達(シュター)よ、現状だけを見てふさぎ込むなよ、もっと長い目でみて、あせらず、くさらず働け。いつか、きっといいことがある」

私は内心、眉をひそめた。この人は、ほんとうにそう思っているのだろうか? 長い放浪から学んだのは、そのような好人は、たいてい没落して身動きがとれなくなり、奸知にたけた悪党が栄えるということである。

私は、自分の考えを口にしなかった。しかし、顔に出てしまっていたようだ。気づけば、老魏(ラオウェイ)のけげんな目がそこにあった。

「そうは考えぬか?」

「いえ……」

「悪事をはたらけば、それを糊塗するのに、たいへんな力がいるものじゃ。ときと場合によっては、生命をもってつぐなわなければならん」

私の不心得を矯(た)めただそうと、老魏(ラオウェイ)が口をモゴモゴさせたときである。背後で、しわがれた声がした。

「魏信(ウェイシン)ではないか。めずらしいのう、若い者に、人生の講釈とは」

ふりかえると、伴(とも)を二人連れた初老の宦官が、こちらをじろりと睨(ね)めつけていた。そのようすは、老いてなお獰猛(どうもう)な鱷(わに)が、えものを射すくめるかのようであった。

「おお、これは、漁覇翁(イーバーウェン)殿」

「久しいのう」

声音はおだやかだが、するどい視線は、ずっと私に向けられている。

「今日、ここで会うとは、観世音菩薩の導きかもしれんな。近々、お宅に参上しようとしていたところじゃ。じつは、そなたに、頼みがある」

老魏(ラオウェイ)が、切り出した。

「これなるは、わが弟弟(ディディ)で、王暢(ワンチャン)、字は叙達(シュター)という。誠実にはたらきもし、読み書きもできるんじゃが、不運にも、正規の採用からもれてしまった。そこで、貴殿のところに空きがあれば、使ってもらえぬかと思うてな。これが、趙三芳(チャオサンファン)殿の紹介状じゃ」

「ほう」

老宦官が手で合図をすると、かたわらに控えていた二人のうち、色白で、華奢なほうが椅子を差し出し、もう一人の、浅黒く、引き締まったほうが、身体を抱きかかえるようにして、主人が席につくのを手伝った。

「見苦しいところを見せて、あい済まぬ。身体が、不自由なものでな」

(これが、漁覇翁(イーバーウェン)様……)

紹介状を一読した翁は、ふたたび、私をじいっと、看(み)た。

椅子から立ち上がり、ひざまずいて叩頭すると、漁覇翁(イーバーウェン)は目をほそめて、おうようにうなずいた。

「よくできた弟弟(ディディ)ではないか。ささ、そこへ座れ。老魏(ラオウェイ)よ、せっかくひさびさに逢うたのだ、連れの者どもも、ともに食事を愉しみたいと言うておる。同席しても、かまわぬな?」

「むろんじゃ」

店子がよばれ、酒と料理が追加された。

「人を観るのに、食事をともにするほど、よい場はない。叙達(シュター)といったな。觴(さかずき)を出せ。近づきのしるしに、乾杯じゃ」

おずおずと、さし出した。どういうわけか、名状しがたい緊張でいっぱいになり、手が、ぶるぶると震えてしまった。

「若いの、そう怕(こわ)がるな。食事は、楽しくするものではないか」

「は、はい」

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『花を、慕う』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。